「東テイ国」興亡の歴史 |
旧伊勢国遺民が奈良盆地に亡命して「東テイ国」を建てた
奈良盆地の東テイ国(鮭文化のクニ)は、五代目猿田彦命の弟の系列が建国し、二世紀末から三世紀にかけて支配していた国であった。その王宮は「纏向の日代宮」の地に置かれたが、そうつの後三回遷っている。①辻地区磯城瑞籠宮②北飛塚地区……泊瀬朝倉宮③太田地区………特別施設のあったところ(纏向玉城宮)東テイ国の纏向古墳群は日本最古の前方後円墳で、纏向型前方後円墳と呼ばれている。前方部が未発達(前方後円墳が整う以前の初期形態)で、全長 後円長 前方長の比は三•二•一となっている(以下の◎印が纏向型)。◎纏向石塚古墳……国指定史跡 ◎ホケノ山古墳……三世紀中頃 葺石、石囲い木榔(棺を納める木製の小部屋)、国指定史跡◎東田大塚古墳……三世紀中頃◎柳本大塚古墳……三世紀中頃◎纏向大塚古墳……三世紀後半◎纏向勝山古墳……三世紀後半◎箸中イヅカ古墳……四世紀後半、埴輪・メクリ一号古墳……三世紀後半、前方後円墳・箸墓古墳……三世紀後半/被葬者は大国主命の長男、前方後円墳、葺石・大市墓古墳……三世紀後半/被葬者は倭迩迩日百襲姫命(実は猿田彦五代目の娘)・箸中ビハクビ……四世紀末/纏向遺跡内唯一の円筒埴輪基底部、墳丘下層か竪穴式住居跡一棟(布留O式期)
ガド族と連合していたイッサカル族は、三輪山を中心に定着した。筑紫の三輪(福岡県朝倉郡三輪町)から移ってきた三輪氏などであり、彼らが祭祀を担った。なお、纏向の太田地区などには大田氏系の先祖も居住した。同じく連合していたゼブルン族は、葛城などに定着した(葛城氏など)。ヤマト政権初期の地11卑弥呼の「邪馬台国」説もあるが、それは誤りである。東テイ国(奈良)と地方との交通・交易の状況は、東テイ国(当時の奈良盆地・鮭文化の国)の出土品を分析すると、この国への搬入土器が一五%以上あることが分かった。その地方毎の割合を調べると、東海四九%、北陸・山陰一七%、河内一〇%、吉備七%、闘東五%、近江五%、西部瀬戸内海三%、播磨三%、紀伊一%となっている(『纏向」一九八○年版参照)。
このことは、当時これらの国々と交通・交易が行われていた証である。また、東テイ国は鉄鐸.銅鐸文化の国で、水と火の祭が三輪山を中心に行われていた。〔三輪山遺跡の考証〕猿田彦命は「われ死なばサナエヒ(銅鐸)が鳴らん」と言った(『嵐神社縁起書』) 当時、土抗を使った祭祀が行われていて、その遺跡として、辻・東田両地区から土抗百五十基が出土している。直径四メートルの土抗(深い穴)を湧水点まで掘削し、祭祀で使用した祭具類を投棄していたのである。その中から、火を受けた遺物が多く出土する。この出土遺物が『延喜式』の「新嘗祭」の条に出てくる品目と一致している。また『階書』および『後漢書』にある高句麗の穀母神を祀る東盟祭の「大穴」にも類似している。土抗四(辻地区)の側の建物跡(二間×商)も祭祀跡と思われる。その主軸方向を東南の三輪山に向け、その山を意識して建てられたかのようである。三輪山は、縄文、弥生時代からの旧い御神体で、本殿がない。縄文港川人や弥生苗族人の〃ヘビ信仰"に彩られた「鉄と水稲」文化をはぐくむ聖山である。東テイ国最後の王は『紀』の兄宇迦斯のモデルとして登場している。だがこれは、三世紀初頭の、いわゆる「神武東征」の"敵役〃として出てくる人物である。真相は、三三年、高句麗から渡来した神武らによって筑紫の委奴国が滅ぼされたのち・イスラエル北朝系大国主命の長男らが二十年かけて奈良盆地に亡命して、二三〇年頃・ユダヤ南朝系のガド族らを六十七年ぶりに攻撃し、それを「神武東征」神話にすり替えての-エウカシ退治物語とした・という次第であった。