グレートファザー、グレートシフト!その2 |
主人の父は8年間、身体の不自由を奪われましたー身体の中に閉じ込められて、瞑想状態にありました。
意識は一度も失われたことがありません。強靭な精神力の持ち主です。
まるで次元と次元の狭間を行き来していたような年月だったことでしょう。
まさにそうした役目を願いでて、引き受けてくれました。
そのことは薄々感じられていました。いつでも見せてくれる微笑み…
やさしさの全てを父は私たちに教えてくれていました。
この8年の間、父は新たなステージに移る準備を
そして私たちも…
それはやはり、共同創造でした。
かつての…父はとても自由気ままな人で、周囲にたくさん迷惑をかけた人でもありました。
しかし、純粋で明るく、優しく…面白く、遊び好きで…誰からも好かれる人だった。
男やもめになってからは、何一つかまわなくなってしまったけれど、若い頃はお洒落で粋な人だったようです。
私は17歳から主人の家に飛び込みました。
それまでは母と2人で寄り添うように生きていたので、主人と父、姉が暮らす、難破船のような黄色い風の家は…自由で明け透けで、これまでに感じた事のない、開放感を教えてくれました。
父は私のことを、台風娘とか、じゃじゃ馬娘とか…呼んでいました(笑)
つきあい始めから、主人と2人きりで食事をすることよりも、彼の父や姉といっしょに食事をすることが愉しかった…
すんなり家族に中に溶けいっていきました。母もそんな私を受け止めて、2人をサポートしてくれました。
東京の大学に通いはじめ、遠距離交際になっても、就職しても…この縁は少しも途切れる事なく、むしろ数々の逆境に立たされて、なおいっそう魂はみずからの願いを実現させるべく、導きました。
ミモザの1歳の誕生日の日に、父と大げんかしたこともあったのです(笑)これも…素晴らしい思いでです。
泣いて笑って喧嘩して…私の母をも巻き込んで…
この家族ゲーム、演じ合いをとことん、楽しみあいました。
8年間の介護生活…下の子を産んですぐに小倉北区にあった自宅と2つのショップ、サロンを今の場所に移しました。
父はすでに半身不随になっており、ここへ越すことも同意していました。
まだ小倉北区にいる時、父がひとりの時に、2度目の発作を起こし、その時から身体が動かなくなってゆきました。
こちらへ来る以前の事。ですから、必然的にこの場所にて介護生活が始まりました。
昨年7月までは、家族全員で、子育てと介護と…お店の仕事への従事にいそしみました。
本当にうまく行っていました。喧嘩もしながら…許し合いながら。
けれど、次なるステージがそれぞれに準備されていました。
その時を経て、それぞれがす〜っと離れてゆきました。
その後、1年間、私たちは光の叡智を実践するべく、自分たちの魂の仕事に専念しました。
父とも母とも、姉とも…異なる世界にて、夢の中で、いつも会っていました…
離れてはじめて、感謝を感じることが出来ました。
それで今に至ります…そしてあの時の決断はそれでよかったと、一昨々日、父の枕元で、繋いできた全ての光を送りながら、心から肯定できました。
すべてはこの時のためにあったともいえる…と。
そして葬儀の最初に…喪主である主人が皆さんに向かって、ご挨拶をさせて頂きました。
読み上げた文章をそのまま載せることにします。
//本日は、お忙しい中、
父、信洪の葬儀にご出席いただきありがとうございます。
9月15日、22:38分、父は、私たちがいる中、とても美しく、
あちらの世界へと還って行きました。
父は、私が5才、姉が10才の時に離婚して、私たちを育ててくれました。
父を恨んだり、憎んだりした時期もありました。
父は、8年前より、脳梗塞をわずらい、全身麻痺になりました。
自由奔放な父としては、少しきついかったこととおもいますが、
回りの介護の方、看護婦さんたちにも大変めぐまれ、
とても大切にされた8年間、
父は、体が不自由な中、
愛ある交流、善ある施しを毎日体験できた事、
本当に良かったとおもいます。
それが証拠に、9月15日、みんなに看取られながら、
本当に美く、微笑みながら、みごとに、昇天して行きました。
そんな父をわたしたちは、とても誇らしくおもいます。
お父さん、本当にどうもありがとう!
こちらを心配することなく、しっかりと高み
へと昇って下さい。
皆様、本日は、誠にありがとうございました。
お礼のご挨拶とさせていただきます。//
オウコクヨミガエル…
まさに光の王国蘇りし時です。
もうずっとずっと大いなるガイドの導きと新しい光に乗って…観せられています。
グレートファザー、グレートシフト!その3へ続く!
父のハイアーセルフ