2/1「もりやにいます、みふつ姫」「森屋大明神」…洩矢(モリヤ)族… |
そんなフイーリングに襲われました。そして夜7時頃くらいから、主人に誘われてドライブに出かけました。物理次元で欲しいものなどない…まさにそんな気持ち。
そして大きなものを手放す前の…かつてないほどの…感覚でした。それで、音楽をかけながら、ただひたすら波のように押し寄せるものを手放していました…
車は朽網のあたりを過ぎて、苅田の方へ。なぜか涙がたくさん出ました。子どもたちが驚いていました…どうして?っていう表情で。
たくさん泣きました…宇原神社前を右折して、再び小倉南方面へ戻っていきました。青龍窟を思い出していました…
その後は、どんどん軽くなってきて。空を見上げると、満月が。そっか。今日は満月だったんだ…気づきました。
必然的に月光浴、出来てよかったです。最後は元気に、食料品をたくさん買って帰りました。しばらくは、そういう気にもなれなかったのですが。
そして今日は夕方から、家族で家中大掃除しました。ほどよくグラウンディング期に入りそうです。いま、アクセスしている次元を物理次元に落としてゆく時期のようです。
我が家の磁場調整を完了しました…
ちょうど、明日から大勢の方がお見えになるようです。
岩村さんのヒーリングが入っています。ちょうど四国の剣山へ行かれていたようです。
またパワフルになられていることでしょう…故郷へ戻られた方々、海外へ行かれていた方々…今の光でかつてない感じ方、受け止め方をされたことでしょう。
また明日、明後日と、遠方からヒーリングやセッションを受けに来てくださる方もいます。
久しぶりにお話をゆっくり伺えそうで楽しみです。
今朝と昨日の朝は近未来的な夢をみました。
そして男性の天使のような存在に抱きしめられていました。
それは官能的な感覚でした。手の先がビリビリきました。
昨日の夜、いつか数度、あらわれた宇宙のファミリーが、あなたのことを全力で守っているよ…
とテレパシー注入してくれました。それで安心して眠りにつきました。(今日、案の定、月のものが始まりました)
ずっとずっと…高木の神やニギハヤヒ、大物主、ナガスネヒコ、事代主…などの存在が意識にあがってきます。
先週のキャンプ(朝倉郡宝珠山での)の後に繋いだ、嘉麻、嘉穂の地(古代物部色の強い地)の高木神社のレポート、そして荒穂神社のレポートをお伝えしながら、ひらめいたことを書きたいと思います。あちこち飛んでわかりにくいかも知れませんが…
以前の書きましたが、朝倉、嘉麻、添田、浮羽地域は九州で最も高木神社が多いエリアです。私たちが訪れたのは…以下の神社です。
高木神社(嘉麻市小野谷1580番)
祭神 高御産巣日神、神武天皇が東遷時ここにやってきて高皇産霊神を祀った。福岡県神社誌には、「本村は往昔、英彦山神社の神領地なりし依て英彦山に於 いては当社を英彦山四十八大行事社の中にして本社はその首班に位せり。
各地にある大行事社今は皆、高木神社という。」とある。
とても古い神社だということが一目でわかります。
遠くからも見るとこんもりと小高い森が聖域を守っています。
夕方だったこともありますが、やや寂しく暗い感じもありました。
ですが大変素晴らしいまさに、高木神社の主班といえる格式が漂っていました。
ここにたどり着けて嬉しいと心から思いました。
稀人の故郷は北九州の遠賀川上中流域・筑後川流域に集中しています。
そして…この領域こそ高木神社が分布している領域でもあります。
物部氏の祖先神、ニギハヤヒ… このニギハヤヒと高木の神との関係を感じてみましょう。
ネットで調べてみると、ニギハヤヒと大物主を同一存在としている方も多くいるようです。
私もいくつかの書籍とそれを書いた研究者の説と出会わなかったら、同じように混同していたでしょう。それくらい日本の古代史は謎に包まれています。
しかし、もはやどの説が正しいかということは私にとってあまり重要なことではなく、自分自身の中にあるものーハートで感知するものをただただ光にあげている中で古代史を奥深くとらえようとしているだけです。そして土地に縛られているものを解き放ちたい…という強い思い。
ですから、歴史認識に関してはどんどん変化したり、外れていったり、ブログも今、過去のものを読み直してみて、あれっと不思議に思ったり、あらたにインスパイアされたり、
逆に書き直したくなったりします(笑)
松重説でいうと…(ほんの一行だけあったのですが)高皇産霊神=ニギハヤヒだそうです。すぐにしっくり来る場合とそうじゃない場合があります。
少し前には高木神は金官加羅の金首露のイメージがあったのですが。首露王のもっと前の…祖先神に繫がるのでしょうね。
孝昭天皇や、それ以前の存在…またはそのスーパーハイヤーセルフ!
でしたら、高木神もニギハヤヒも…私たちの超ハイヤーセルフでもありますね…(笑•納得)
そしてやはり、またも、いろいろな鍵を解く存在が高木の神の娘とされる美穂津姫の存在のような気がします…
大物主ー公孫度(安日彦で、事代主の父)であるなら、美穂津姫=弥富都比売は大物主神の妃神で大神神社(現奈良県桜井市)の別宮ともいわれています。(大三輪神三社鎮座次第)。
大物主をニギハヤヒと考えている人も多いので、高木の神の娘、美穂津姫をニギハヤヒの妻であるとしている人が多い。
ニギハヤヒの妻は、ナガスネヒコの妹のトミヤスヒメ(登美夜須毘売)で、ウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけたのです。
ここでひらめいたのですが…神武の后が大物主=公孫度(安日彦で、事代主の父)の娘、ヒメタタライスズヒメ=卑弥呼です。
そして神武の母が玉依姫です。神武の后も玉依姫と書かれていることが多い、玉依姫命と呼ばれる女神は1人ではなく、日本各地の神社に同じ名前の神が祀られて いる。玉依姫命という名称は、木花開耶姫命などのような固有名詞ではない 。「タマヨリ」とは、「霊依」あるいは「魂憑」からきたもので、神の依り憑く巫女、の意とされる…
大物主=公孫度(安日彦で、事代主の父)の后が美穂津姫であれば、卑弥呼の義理の母あるいは、実の母となるわけですよね。
ヒメタタライスズの実母は、大物主が一目惚れした、勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)です。この勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)と美穂津姫はおそらく別人です。
そして…3女神は、大物主のハーレムにいた巫女たちと書かれていましたので、アジスキタカヒコネの母である田心姫と美穂津媛などはもしかしたら同一存在かも知れませんがどうでしょう?
大物主の子、事代主(公孫康)とアジスキタカヒコネも、同一神とも言われることが多いです。ともに鴨神です。
もうひとり、下照姫という存在がアジスキタカヒコネにはおり、興味深い説話がありますね…このエピソードも何らかのメッセージのような気がしてなりません。このあたり、安日彦ーナガスネ彦義兄弟などを彷彿とさせます。
古代は義兄弟や義姉妹がたくさんいたのでしょうから、誰かしら、自分にそっくりのよく似た存在はいたはず。(例、武内宿禰と壱岐真根子など)
なにか、このあたりはまた時間があるときに潜ってみたいと思います。
以前もブログに書きましたが、20年来の大切なサロンの顧客の方で、
下関豊浦の由緒正しいお宮、杜屋神社の宮司さんを血縁者にもたれている方がいます。
ヒメタタライスズが卑弥呼=玉依姫であれば、私にとって、美穂津姫は…何となく、豊玉姫的なイメージでとらえています。(また響きからすると、瀬織津姫的でもある…)
そして3女神の中でもっともシンパシーを感じる田心姫に近い存在。
8月17日のブログより…
再び…杜屋神社
もりやじんじゃ…
(8/17のブログ、海神の娘たち◎豊姫、虚空津姫、淀姫、田心姫、木花之開耶姫、弥冨都比売…)
山口県下関市豊浦町黒井杜屋町1541
http://www.genbu.net/data/nagato/moriya_title.htmより抜粋です。
式内社 長門國豊浦郡 村屋神社
旧県社
御祭神
三穂津姫神
配祀 仲哀天皇 応神天皇 神功皇后
祭神・三穂津姫神は、高皇産霊尊の娘。
『日本書紀』には、高皇産霊尊が大物主神に対し、国津神を娶れば、疏ぶ心があるのだろうと思う、
だから、娘(三穂津姫神)を娶って八十万の神々を統率し皇孫を護り祀れといった。
日本武尊が海路穴門国でシケにあった時、三穂津姫神が亀に乗って現われ、毛呂の浜まで導いたという伝説もある。
仲哀天皇が九州征討のため、豊浦宮へ行幸された時、毛呂の里に、霊光が終夜輝いた。
天皇はこの霊光を祀った。
この神が、三穂津姫神であるともいう。
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また同じく美穂津姫を祀る 村屋坐弥富都比売神社 http://yamatotk.web.fc2.com/tawaramoto/murayajinjya.htmより
こちらの縁起をみてみましょう。
村屋…でこちらもモリヤと読むのですね…ハートが「森屋大明神」に反応しました!
初瀬川西岸、 奈良県田原本町蔵堂に鎮座。祭神は三穂津姫命・大物主命。弥富都比売は大物主神の妃神で大神神社(現奈良県桜井市)の別宮ともいう(大三輪神三社鎮座次 第)。社蔵の寛永十五年(1638)の梵鐘には「森屋大明神」とあり、天王ともいう(大和志)。旧郷社。『日本書紀』天武天皇元年七月二十三日条に壬申の 乱に関して、「又村屋神、祝に着りて曰く、「今吾が社の中道より、軍聚至らむ。故、未だ幾日を経ずして、庵井造鯨が軍、中道より至る』と記す村屋神にあた る。書紀の記載どおり中ッ道が境内を南北に走っていたと推察される。村屋神は前記信託の功により位階を進められ(日本書紀)、天平二年(730)の大倭国 正税帳(正倉院文書)によると、神戸の租稲五四束二把のうち、実に五四束が祭祀料(四束)・神嘗酒料(五〇束)に充てられていた。大同元年(806)の牒 (新抄格勅符抄)によると、大和国で三戸、美作国で三戸の紳封を有し、天安三年(859)一月二三日、従五位下より従五位上に昇叙した(三代実録)。「延 喜式」神名帳の城下郡には「村屋坐弥富都比売神社(大、月次相嘗新嘗)」とみえ、相嘗祭には絹一疋、調布三端四尺、鮑十両などのほか酒稲五十束が奉られた (同書四時祭)。平安時代には伊保戸荘(いおどそう)のうちに三反の社田を有していた(興福寺雑役免帳)。中世豪族の筒井氏は当社氏人森屋党の出身とする 説もある。
慶長四年(1599)の御社記(当社宮司森屋家文書)に「天正之度国乱之後紳領八十反皆被没収無禄と成故、(中略)社家社人社務等追々 及絶断、漸々神主壱軒・禰宜二軒・神子二軒ニ羅成、(中略)社頭追追衰廃して旧例之失社格、神主禰宜神子等其職を勤る事難成、紳祭懈怠におよふ事二十有余 年』とみえ、これを嘆いた当時の神主森屋重政が慶長四年に神社修復、祭祀の復興をはかった。近世には近隣十四カ村で宮郷が形成され、現田原本町伊与戸・笠 形・大木・大安寺、天理市遠田町からなる宮座を守講と称し、慶長十二年の「村屋大明神守講中箱」と墨書した箱や、宝剣・神名帳・和歌集などが残る。文禄四 年(1595)の蔵堂村検地帳(田原本町史)によると、大禰宜田六畝、神子田三畝六歩があった。境内社叢は県指定天然記念物。
【境内摂社】
城 下郡の式内社に比定される次の三社がある。服部神社は「延喜式」神名帳に「服部神社二座(鍬靫)」とみえ、天御鉾命・誉田別命を祀ると伝える。「大和志」 に「在大安寺村今称波都里神」とみえ、社伝も現田原本町大安寺字初り神から遷祠したという。村屋神社は「延喜式」神名帳に「村屋神社二座」とみえ、明治二 十四年(1891)の『神社明細帳』には祭神は「経津主神・武甕槌神・室屋大連神・大伴健持大連神」とあり、旧社地は本社東方の宮山と伝える。「大和志」 には「在蔵堂村村屋邑十三村民共預祭祀」と記す。久須須美神社も「延喜式」神名帳に「久須須美神社」とみえ、天之久之比命(あめのくしひのみこと)・事代 主命を祭神とし村屋神社旧社地北に鎮座していたと伝える。
-寺院神社大辞典(大和・紀伊)より-
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