4の2、海神の娘たち◎豊姫、虚空津姫、淀姫、田心姫、木花之開耶姫、弥冨都比売… |
※本来は阿蘇の神々の母と呼ばれる地祇神「蒲池媛」(かまちひめ)
この「蒲池媛」は神功皇后の三韓征伐に従ったという。
蒲池媛は「満珠干珠の玉」で潮の満ち引きを操り、皇后軍を勝利に導いたという。蒲池媛は海人の血をひく。
そして「満珠」は蒲池媛を祀った宇土の郡浦神社に、「干珠」は阿蘇外輪の草部吉見神社に祀られたという。また阿蘇家伝書には満珠干珠は阿蘇山の玉嶽に納める。とも見える。
山幸彦(火遠理命)は海神の宮を訪ね、そこで豊玉姫を娶り「満珠干珠の玉」を手に入れて戻る。そして、満珠干珠で潮の満ち引きを操り、海幸彦を下す。
前述の神功皇后の妹、川上の與止日女も、川と海の水を操作する二つの珠を持っていた。干満の差が激しい有明海では、満潮時に海水に押し上げられた真水を農業用水として取水する。與止日女が川のみでなく海の潮をも操作する所以。
河上神社文書では河上神社の「豊姫」と宝満山の「玉依姫」が神功皇后の祈祷を手伝ったと記される。満珠干珠を通して「豊玉姫」と川上の「與止日女」と阿蘇の「蒲池媛」が重なる。
九州北部沿岸の神功皇后伝説では、満珠、干珠は三韓出兵の際に阿曇氏の祖神、阿曇磯良が龍宮から借り受けて皇后に献上し、皇后は三韓征伐に成功する。阿曇磯良は豊玉姫の子とされる。
「鯰」とともに女神たちに纏わるこの「満珠、干珠」の逸話は、ひとつのモチーフが別の地域で、立場の違う民によって異なる逸話に変えられてゆく代表例。尾鰭がついたり、自身らの都合のよい話に変わってゆく。逸話の中に残る本質を見据えることが大切なのであろう。
そして神名は神徳を顕すという。豊玉姫、玉依姫、高良玉垂命、阿蘇の速瓶玉命など「玉」の字を持つ神名の連鎖が、満珠干珠に纏わる海人の系譜を繋いでゆく。
女神を祀り、「鯰」をトーテムとして、潮の満ち引きを操る海人とは、何処からきたのであろうか。
「後漢書倭伝」に「会稽の海外に東魚是人あり。分かれて二十余国を為す。」とあり、注釈によると「魚是」は鯰の意。東魚是人とは鯰をトーテムとする民であるという。(魚是は一つの文字)
そして会稽の海外の東魚是人とは、漢の会稽郡の東、列島の二十余国であるという。
呉人の風俗が「提冠提縫」と表される。提とは鯰。呉人は鯰の冠を被っているとされる。
呉は長江の下流域に在って、BC473年に越に滅ぼされる。呉人は海人。東シナ海から列島へと渡った。大陸の史書に倭人は呉の祖、「太伯」の後裔であり、入墨などの習俗は共通する。と書かれる。
鯰をトーテムとする海の民とはこの呉人の裔であろうか。
肥後の「蒲池媛」は有明海を遡り、筑後、三潴の「水沼君」の氏神となる。筑後の名族「蒲池氏」は多くの流れがある。が、古い蒲池氏族は「蒲池媛」の子孫であると伝える。
高良大社の玉垂命は祭神論争で有名。饒速日、武内宿禰、藤大臣、月神など諸説ある。筑紫の国魂と仰がれる筑後国一の宮。朝廷から正一位を授けられた神様なのに正体が判らない。高良垂玉命は記紀、続紀に出てこない「隠された神」。
(高良大社は、6月の初めに訪れました。その時のブログはこちらを!)
興味深い話がある。遠く滋賀、草津の「鞭嵜八幡宮」では神功皇后の妹として「高良玉垂命」を祀るという。
鞭嵜八幡宮は天武天皇の命により676年に創建された大社。祭神は応神天皇、聖母大神として神功皇后。そして高良玉垂命を「聖母大神の妹君」として祀っている。
伝説では高良山にはもともと高御産巣日神が地主神として鎮座していた。が、玉垂命が宿を求めて来たので高御産巣日神が貸したところ、玉垂命は神籠石を築いて居座り、高御産巣日神は戻れなくなって麓の「高樹神社」に鎮座したという。
この逸話は高良玉垂命が他所から来た支配氏族の神であったことを示している。
蒲池氏の祖、阿蘇の神「蒲池媛」を祀る氏族は有明海を遡って筑後に居座り、自身の氏神、神功皇后の妹君「蒲池媛」を高良山に祀った。
高良大社の祠官に阿蘇の「日下部氏」が在る。大善寺玉垂宮の大祝部の「隈氏」や高良大社の武内宿禰系譜の「神代氏」に「クマ」の存在。肥後と筑後の拘わりが見える。
鞭嵜八幡宮の神官は紀氏。のちの世、高良大社に拘わった武内宿禰氏族が、滋賀に高良玉垂命を勧請したのであろうか。
高良山の北、筑後川を挟む北野に「赤司八幡宮」がある。
(赤司八幡宮は8月の初めに訪れました。その時のブログはこちらを!)
応神天皇、住吉大神、そして高良玉垂命を祀る。が、元は赤司八幡宮ではなく「豊比咩神社」であったという。延喜式神名帳には「筑後国御井郡、名神大、豊比咩神社」とあり、古くは高良山と並び立つ大社であったという。
縁起では天照大神の神勅によって宇佐、宇像、道中の三ヶ所に降り立った三女神のうち「道中」というのはここであり、景行天皇が筑後に巡狩した折「田心姫 命(たごりひめ)」の荒魂が「八止女津媛」となって現れたため、天皇はこの宮に「田心姫命」を道主貴(ちぬしのむち)として祀ったという。
また、神功皇后が西征の途において中ツ海(有明海から筑後川河口)を渡るに際して「水沼君」は軍船を整えて皇后を渡し、蚊田行宮を建てて皇后を迎える。皇后は三韓征伐後、再び蚊田行宮に入り、応神天皇を産んだと伝わる。
皇后はこの宮に妹の豊姫を「道主貴」として留め、西海の鎮護とした。そのため、この宮を「豊比咩宮」と称するとも。水沼君の末裔、赤司大宮司は豊比咩神に仕え、河北惣大宮司として続いたという。
日本書紀に「即ち日神の生れませる三の女神を以ては、葦原中國の宇佐嶋に隆り居さしむ。今、海の北の道の中に在す。號けて道主貴と曰す。これ筑紫の水沼君等の祭る神、是なり」とある水沼君が祀る「宗像の三女神」とは上記の縁起。
「田心姫命」は宗像大社の社伝では沖ノ島の沖津宮に祀られる。水沼君は宗像君とともに玄界灘の沖ノ島の祭祀に関与した「物部阿遅古連(あじこのむらじ)」の末裔であるとも。
「道主貴」とされた神功皇后の妹「豊姫」こと、川上の「與止日女」、阿蘇の「蒲池媛」は、宗像三女神の「田心姫命」とも重なってしまった。宗像、上西郷の民は鯰を眷属として祀る。地域最大の総合公園は「なまずの郷」と名づけられ、庭園の池には鯰が群れる。
「與止日女」「蒲池媛」の鯰(なまず)から始まったこの不思議な連鎖は、宗像三神へと繋がり、半島の神とも習合して香春から宇佐の比売大神へと、まだまだ続く。
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福岡県の八幡古表神社では虚空津姫の別名は玉妃命・豊比売命となっています…(八幡古表神社、6月20に訪れていますその時のブログはこちらです!)
今日、あげた神社、ほとんど行きましたね!実際に行き、感じてみるとインスパイアされますね!
武内宿禰の他の妻の事も、みてみましょう…
再び、blog.goo.ne.jp/araki-sennen/3さんより引用させていただきます…
武内宿禰の子、葛城襲津彦を始祖とする葛城氏は、古墳時代、大和の葛城に本拠を置いた有力な氏族。
葛城襲津彦は朝鮮半島に派遣され、連れ帰った渡来人集団により鍛冶生産を始めとする強大な力を得て、大王家と並び立つ存在になった。
5世紀前半には大王家と継続的な婚姻関係をつくる。が、雄略天皇の時にその関係は破綻、葛城氏の力は潰え去る。
この葛城氏と前述の賀茂氏の関係が深い。
葛城氏には大きく二流ある。葛城襲津彦を祖とする氏族と、それ以前より葛城の地に関連して葛城の名が付されている氏族とがある。
神武天皇の大和侵攻に協力した剣根命の裔とする葛城氏族である。そしてこの剣根命が、同じ葛城の地に住む賀茂氏と同祖であるという。そして、剣根命氏族の「葛比売」と、武内宿禰との間に生まれた子が葛城襲津彦であるという。葛城襲津彦の一族は婚姻関係をもって地祇の葛城氏族と同化した。
何故か記紀は、葛城襲津彦以前の葛城氏や賀茂氏の存在を曖昧にしている。武内宿禰の出自も気になる。武内宿禰は数百年の寿命をもつ不思議な存在になっている。
記紀では、編纂時の政権にとって不都合なことを意図的に消し、改竄したともいわれる。
神功皇后も葛城氏の流れを引く葛城高額姫と、息長宿禰王との間に産まれている。そして応神天皇からそれまでの大王家とは異なる流れが始まっている。この辺りに秘密があるのか…
博多の十日恵比須神社には事代主氏族に拘わる葛城氏や、武内宿禰、神功皇后の影が見える。
因みに事代主神の母は「神屋楯比売」この母も出自がはっきりしない。宗像の辺津宮の田寸津姫とも。そして武内平十郎は始祖に纏わる「神屋」の名を称している。(了)
(以上引用終わり)
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となると…わたしの中での、豊玉姫および、淀姫は…山下影姫のイメージに近いかな。
あるいは…孝元天皇ーキムスロ王(?)の王妃、許黄玉のような褐色の人か。
やはり…熊襲、土蜘蛛、隼人との関わりふかく、八代の魚紋しかり…海人族の人々や加羅族の流れを感じるエピソードばかりです。夷人、胡、クメール族 鴨族、フェニキア人、カルタゴ人、アラム人…神話は…海人族たちが、まさに混血しながら、偉大な先住民の神をひそかに祀ってきたのでしょう…
龍女 豊玉姫はカラ族の姫でしょうか。コノハナサクヤ姫も連想します。それが…卑弥呼(トヨ)や壱代というシャーマン女王の流れか…
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以下は調べていて行き当たった気になる系図。http://menorah.seesaa.net/index-28.html
卑弥呼とは、「梁書」では、光和年間(178年〜183年)倭国大乱後、即位す。
天 照大神─●天忍穂耳尊(実須佐之男命第一子。天穂日命[須佐之男命と天照大神の子。出雲臣土師連等祖]、天照大神の子:天津彦根命[凡河内直。山城直等 祖]、活津彦根命、熊野クス日命)─*天火明神(母金首露王〔高皇産霊神〕長女栲幡千々姫。尾張連祖)、弟●邇邇芸命(母同天火明神)─火闌降命(火照命= 海幸彦。隼人等始祖)、弟●彦火火出見尊(母大山紙神女木花之開耶姫。火遠理命=山幸彦)─●葦草不合命(母海童二女豊玉姫。日向吾平山陵)─彦五瀬命 (母海神女海童女)、弟稲氷命(母同)、弟三毛入野命(母同)、弟●(1)神武天皇(実は高句麗の東川王〔東襄王〕?。母は系図では海神女海童女。神日本 磐余彦尊。皇后五十鈴媛命)─手研耳命(母吾平津媛)、弟神八井耳命(母同綏靖)、弟●(2)綏靖天皇(母皇太后事代主神女五十鈴姫命。弟岐須美美命[母 阿比良比売。此時山陽道稲始]、弟彦八井命[茨田連手嶋連等祖]、弟研耳命[母同手研耳])─●(3)安寧天皇(母事代主神女五十鈴依姫)─息石耳命(母 事代主神子鴨玉女皇后淳名底中媛。子:天豊津媛[懿徳后。孝昭母])、弟常津彦某兄命(母同)、弟●(4)懿徳天皇(母事代主神子鴨玉女皇后淳名底中媛。 安寧の子:磯城彦命[母同。猪使連中原祖。子:ヘヘ伊呂泥、ヘヘ伊呂ト])─●(5)孝昭天皇(母息石耳命女皇后天豊津姫。94-120。弟多■志比古命 [母同])─天足彦国押入命(母尾張連世襲妹皇太后世襲足姫。柿本祖。子:姉押媛命[孝安后。孝霊母])、弟●(6)孝安天皇(実は武埴安彦?。母は系図 では息石耳命女皇后天豊津姫。121-149)─●(7)孝霊天皇(母天足彦国押入命女皇太后姉押姫命。150-185。大田田根子。出雲の神門臣の娘の 美気姫を妻とし、大御気持命を成す。弟大吉備諸進命[母同])─●(8)孝元天皇(母磯城縣主大目女皇后細姫。186-203。妹千千速比売命[母倭国香 姫。古事記には春日之千、千、速真若比売生に千、千速比売]、妹倭迹迹日百襲姫命[母同。卑弥呼?]、弟日子刺肩別命[母倭国香姫命]、妹倭迹迹日稚屋姫 命[母同]、弟彦狭彦命、弟稚武彦命、弟大彦命[四道将軍。北陸]─武淳川別命[四道将軍。東海])─ 大毘古命(母穂積臣遠祖鬱色雄命妹鬱色謎命。安倍臣高橋臣祖。子:建沼河別命[子:豊韓別命〔穂積、安部、阿閑臣、伊賀臣等七族祖〕、意布比古命〔若宮 臣。津守連始祖〕]、比古伊那許士別命、六雁命[高橋祖]、御間城姫[崇神皇后])、◎妹少名日子建猪心命(卑弥呼。171年10月に宇佐市に着任、 247年11月歿)、弟●(9)開化天皇(母皇后鬱色謎命。204-235。弟彦太忍信命[母大綜麻杵女伊香謎命〔伊香雄命妹〕]、弟武埴安彦命[母河内 清玉繁女埴安媛]、◎妹妹倭迹迹姫命[母同彦太忍信命。臺與。248年即位])─彦湯産隅命(母丹波竹野姫)、弟?●(10)崇神天皇(母大綜麻杵女伊香色 謎命。236-256。御葦国天皇須、御眞木入彦伊佐知命、男弟、官有弥馬升。弟彦坐王[母和珥臣遠祖姥津命妹姥津姫]、妹観松姫[母同崇神]、弟武豊葦 刺別命[母吉備津彦命女包姫。道守臣等祖])─豊城入彦命(母紀伊国荒河畔女遠津年魚眼眼妙姫。上毛君下毛君等祖)、弟倭彦命、妹豊鍬入姫命(母同。豊 与。伊勢斎 宮始。天照大神奉祀)、弟大入杵(母大海姫)、弟●(11)垂仁天皇(母大彦命女皇太后御間城媛。259-292。伊久米入彦伊佐知命。官伊支馬。崇神の 子:彦五十狭茅命[母大彦命女皇太后御間城媛]、大入杵命[母尾張大海媛]、八坂入彦命[母同大入杵命。子:八坂入姫命〔景行后〕、茅姫〔景行妃〕]、妹 淳名城入姫命[母同八坂入彦命]、弟十市■入姫命[母同八坂入彦命]、弟伊邪能稚命[母は系図では大彦命女皇太后御間城媛。伊声耆掖邪柯]。妹片方姫命 [母大彦命女皇太后御間城媛。難升米、卒善中郎将]、妹千千衡倭姫[母大彦命女皇太后御間城媛]、弟倭彦命[母大彦命女皇太后御間城媛])─誉津別命(母 皇后狭穂姫)、妹五十瓊敷入彦目(母日葉酢姫)、弟●(12)景行天皇(母丹波道主主女日葉酢姫。293-330。景行天皇2年春3月3日、播磨稲日太郎 姫を皇后とす。妹大中姫命[母同]、妹倭姫命[母同。伊勢斎 宮])─櫛角別王、弟大碓皇子、弟日本武尊(母伊那毘大郎女)、弟●(13)成務天皇[母八坂入姫。331-340。子:和謌奴気王]、妹五百木入姫命 〔母同成務〕─品陀眞若王─中日亮〔応神后〕)─稲依別王、弟?●(14)仲哀天皇(母両道入姫命。341-344)─摩坂王(母叔父彦人大兄女大中姫。 神功皇后により赤猪で喰殺される)、弟忍熊王(母同)、弟、●(15)応神天皇(359-391。大隈正八幡本縁起によれば、「苻洛の四男。母は五胡十六 国中の秦一族の震旦国燐王〔陳大王〕」の娘の大比留女〔7歳で懐妊し苻洛を成す〕。苻堅に敗れ大隈の八幡崎に漂流後に日向の隼人と組んで九州を統一。九州に あった物部王家に婿入り)─額田大中彦皇子(深川別始祖)、弟去来真稚皇子、弟大山守命、弟●(16)仁徳天皇(倭王讃。392-430。応神の子:根鳥 皇子、菟道稚郎子皇子[母宇治之豪族和邇氏女。応神皇太子]、八田皇女[仁徳后]、草香幡梭皇女[履中后]、稚淳毛二派皇子[子:忍坂大中姫命]、小葉枝 皇子、大葉枝皇子、集総別皇子、幡日之若郎子、迦多遅王)─●(17)履中天皇(母葛城襲津彦女磐之姫命。倭王弥。431-***)、弟御馬皇子(母 同)、弟青海皇子(母同)、妹中磯皇女(母幡梭皇女。大草香皇子の妻となり眉輪王を出産の ち安康后)、弟住吉仲皇子、弟●(18)反正天皇(母葛城襲津彦女磐之姫命)、弟●(19)允恭天皇(実は新羅奈勿尼師今子訥祇?。母は系図では葛城襲津 彦女磐之姫命。倭王済。仁徳の子:大草香皇子[子:眉輪王]、妹幡梭皇女[履中后のち雄略后])─木梨軽皇子(母皇太后忍坂大中姫命。倭王興。允恭皇太 子)、弟●(20)安康天皇(母皇太后忍坂大中姫命)、妹名形大娘皇女(母同)、弟●(21)雄略天皇(母同。百濟王昆支王、倭王武。妹軽大娘皇女[母 同]、弟八釣白彦皇子[母同]、妹但馬橘大娘皇女[母同]、妹酒見皇女[母同])─●(22)清寧天皇(母葛城円大臣女韓姫)、妹春日大娘皇女(母春日和 珥臣深目女童女君。仁賢后)。
頭が痛くなるでしょう…(笑)
◎昨日のブログでは、栲幡千々姫は、
高皇産霊神の娘であり、…ヨロヅハタトヨアキツシヒメ万幡豊秋津師比売でしたね…
◎平山上陵(あいらのやまのうえのみささぎ、あいらさんりょう)は、ウガヤフキアエズとタマヨリビメの陵墓。可愛山陵・高屋山上陵とともに神代三山陵を構成する[1]。
伝説地は日本の宮崎県と鹿児島県に数か所あるが、鹿児島県鹿屋市吾平町にあるものが最も著名である。
概略 [編集]
『延喜式』に、「日向国吾平山上陵彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊在二日向国一無二陵戸一」(一、二は返り点)とあり、『日本書紀』に、「崩二西州之宮一、因葬二日向」吾平山上陵一」(一、二は返り点)とある。平安時代にはすでに陵戸が無かったが、1874年(明治7年)7月10日に政府は肝属郡姶良郷上名(かんみょう)村に治定を見た[2]。しかし、宮崎県側からの反論が強く、1896年(明治29年)6月23日に鵜戸神宮近くの速日峯山上も伝説地と定めた(現在は参考地)。
鹿屋市吾平町の吾平山上陵は「小伊勢」ともいわれ、1935年(昭和10年)には昭和天皇が、1962年(昭和37年)には皇太子(今上天皇)・皇太子妃(皇后美智子)が参拝している。1936年(昭和11年)に建立された昭和天皇の参拝記念碑は、1938年(昭和13年)10月15日の水害(肝属川を参照)で流出したが、1990年(平成2年)に河川整備事業の最中に発見され再び建立された[3]。山陵内には「鵜戸六社権現」があった[4]が、1871年(明治4年)の災害により現在地(鹿屋市吾平総合支所⦅旧吾平町役場⦆の南隣)に遷座し、名称も鵜戸神社に改められている。
4の3、海神の娘たち◎豊姫、虚空津姫、淀姫、田心姫、木花之開耶姫、弥冨都比売…へ続きます!