3、いとよき島、カヤの光… |
最も生行きたかった神社、志登神社…に向かう途中で憧れの…可也山が見えてきて、早く近づきたくなってしまいました。
志登(しと)神社
すぐ海が近いといっても、平地にあってあまりピンと来ませんでしたが、境内に入ると、海のお宮のエネルギーが漂っています。不思議なフイーリング。
御祭神:豊玉姫命、配祀:和多津見神、息長帯姫命、彦火火出見尊、武内宿禰命
境内社:天満宮、皇大神宮、八坂神社、鷹神社他
弥生時代は、この周辺は、入江が東西から割り込み、伊都国の港を形成していた…
祭神は日本神話によれば海神国より帰って、この地に上陸されたという日向二代の妃「豊玉妃」であり、社殿は西方に向かって建ち、昔は海上から参拝するようになっていた。(「社前案内板」より)
(地図原画は、http://inoues.net/ruins/sito_sisekibo.htmlより拝借。)
まさしく…海神のエネルギー。この時期に海岸線を繋ぐ使命の深さを感じています。懐かしさと優しさを感じました。蚊は多かったけど…(笑)
横に倒れてもなお、成長し続けている巨木?珍しい樹々を見つけて、イシスさんが教えてくれました…
きっとこのあたりに集落を筑いた人々は海から渡来してきた伽耶の人々だったに違いない…
それを伝えているのが…すぐ近くにある志登支石墓群です。http://inoues.net/ruins/sito_sisekibo.htmlより
【前原市・志登支石墓群 】(国指定史跡)
福岡県西端に位置する前原市は、南に脊振山系の雷山、井原山を望み、北に糸島富士といわれる可也山と海という豊かな自然に囲まれ、近年までは糸島郡前原町として、静かな田園地帯であった。
弥生時代には、縄文式土器に比べて、複雑な意匠や土器表面の紋様はなくなり、すっきりした実用的な土器が使われるように
なった。弥生時代は、紀元前3世紀から3世紀ごろまで約600年間続くが、この時代は、稲作農耕の開始と金属器の使用という2つの大きな特色を持ち、これらの文化は、渡来人による大陸からの伝来といわれている。
糸島は、地理的には中国大陸・朝鮮半島とは「目と鼻の先」にある。糸島の先人たちが、比較的早い時期からこの新しい文化に接し、それを受容して来たことは容易に想像できる。糸島では大陸・朝鮮からの渡来人もしくは渡来系集団とかかわりをもった遺跡・遺構を多く見い出すことができるが、ドルメンもその一つである。ドルメンは、朝鮮半島に多く見られる古代墓制の一つで、重さ1〜2トンほどの巨石を、人の頭ほどの石で支え、その下に死者を葬るという構造の墓である。この特異な形
式の墓は、わが国では弥生時代前期ごろからのもので、北西部九州沿岸一帯に多く見られる。
遠く南に聳える佐賀県の雷山から流れてくる雷山川。北を目指して流れてきた川は、この先で90度西へ流れを変えて加布里湾に注ぐ。
ここ前原にも、「伊都国」以前、おそらくは朝鮮半島から渡ってきた人々が葬られたと思われるドルメンがある。ドルメン、即ち日本語で言えば「支石墓」(しせきぼ)である。この地方にはいくつかの支石墓群が存在しているが、志登支石墓群は、糸島平野のほぼ中央、古代糸島水道跡の低地の中でも、比較的小高いところの標高5〜6メートルの沖積台地にある。周辺の水田面よりおよそ1m内外高い場所に10基の支石墓が、1、2mの間隔を置いて配列されている。昭和27年(1952)、地
元の考古学者原田大六が35歳の時発見し、昭和28年(1953)福岡県文化財保護委員会によって、支石墓四基、甕棺八基が発掘調査された。発掘調査の結果、朝鮮半島南部に多い「基盤形支石墓」であることが判明した。
支石墓は1〜3個の支石に、径1.5〜2m前後、厚さ50cmほどの平たい石や亀甲状の大石が支石墓の上下となっている。
下部構造は魂石によって長方形の石かこいをしたものと、浅い土壙をもつものであった。副葬品として、黒曜石製石鏃六、朝鮮製と判断される磨製石鏃四が出土した。上石の巨石は玄武岩と花崗岩が使用されている。「可也山」から運んだのではないかとされている。甕棺は単棺・合口甕棺、坏や浅鉢を蓋としたものであったが、土器の形成から弥生時代前期〜中期のものと比定される。
可也山は糸島半島の西にあり、標高365m。「糸島富士」「筑紫富士」「小富士」とも呼ばれている独立峰であり、半島内で最も高く、半島のどこからでも、その秀麗な山容を眺めることができる。可也山はかっては火山であり、大部分が花崗岩で、山頂部は玄武岩である。志登支石墓群からの見る可也山が最も美しいと言われる。可也山の花崗岩は質が良く、黒田長政が東照宮の鳥居として献上した大石を切り出した跡が残っている。糸島半島は古代から朝鮮半島と繋がりの強いところであり、可也山という呼び名も「伽耶(かや)」国と関係があるのではないかとも言われる。
かっては、古代の糸島半島は、海に突き出ている「志麻(しま)郡」と内陸部の「怡土(いと)郡」とに別れていて、ふたつの地域は糸島水道によって分断されており、志麻郡にあたる部分は島であったと考えられていた。しかし最近の縄文時代の海面変動の分析や地質調査、海生動物の化石分布調査、遺跡発掘調査の分析などから、上図のように、縄文時代以後の糸島半島は、泊−志登間では、南北に陸地としてつながっていた可能性が高いとされている。(上記地図参照)
怡土と志麻が元来陸続きであったとすると、泊−志登地区が両地を結ぶ橋の役目を果たすとともに、東西から入り込んだ湾の接点に位置しているため、伊都国の海の玄関口として重要な位置にあった事が推測できるのである。
また、志登支石墓群の近くにある「志登神社」(下)周囲は、古代の糸島水道にあたり、海神である豊玉姫命や和多津見神を祀っていたものと思われ、古代は、海より参拝していたらしいとも言われる。(以上、引用終わり)
志登支石墓群(写真下部)と可也山(写真上部)
志登支石墓群説明