引用 東表国の成立と宇佐八幡宮/宇佐の放生会 |
第三章 弥生文化の普及弥生文化の伝来と階級分化の起こり
約三千五百年前、エブス人(またはプロト・フェニキア人)・ヒッタイト人らがタルシシ船で九州へ渡来し国東半島重藤へ製鉄基地を築いて「中国段王朝(実は股文化圏)」へ武器や農具など鍛鉄製品の供給(輸出)を開始した。その情報がバンチェン王国に伝わると、水田稲史とする歴作文化を持ったシュメール人と苗族が九州有明湾の鳥栖へ上陸し始めた。こうして、長い縄文時代のあと弥生文化(水田稲作)の新時代が到来し、先住民も活用され進類して各地の人口も急激に増加した。続いて約三千百年前、エブス人・ヒッタイト人および股人ら、いわゆる"七福人〃がUターンして豊ノ国(東表国・都は宇佐八幡宮)をうち建てた。これがわが国第一王朝の始まりで部ある。
そして、その金属文化を伴う水田稲作農業文化圏は、王国の拡大とともに約千年をかけて日本列島および朝鮮半島全体へ拡散・普及していったのである。
この時、殷人たちは薩摩湾にも渡来して薩摩隼人が生まれている。ただし、この薩摩隼人は苗族の男とシュメール人の女との間に生まれたもので、この薩摩隼人はのちの大隈隼人.熊本化文の白丁隼人らとは別の人種であった。縄文時代から弥生時代にかけて、このような幾時代にもわたる新しい民族の渡来ごとに、新三第渡来人は、先住民である港川人・オロッコ人・ツングース(アイヌ人)・アエタ族らの縄文人を戦闘で打ち負かし、すべて捕虜にした。この捕虜たちは、従来の諸学説と異なり、実際には不必要に殺されず、できるだけ生かされて新文化の建設に活用されていった。すなわち、①水田稲作農業やタタラ製鉄などに使役した(七八%)②食用とした(一〇%)③性的奴隷とした④貢物とした(1%)⑤生賛・身代わりとした(1%)という風習(不文律)であった。
その権力者は、やがて「倭の百余国」の王となり、それに奉仕する者たちもそれぞれ階級分化していった。王の側近上層部は大人(たいじん)といわれ、その下に下戸(げこ)と呼ばれる者たちがいた。大人は婦人四、五人を持ち、下戸は一人か複数の婦人を持っていたという。王など権力者の葬送の際に、死後の世界でも奉仕するため奴碑は殉死を強制された。これが『魏志』倭人伝な卑弥呼の貢物「生口」ともなったのである。
東表国の成立と宇佐八幡宮
約三千百年前、国東半島重藤の製鉄基地が発展して殷の東表国となった。彼ら殷文化圏のエブス人ら七福人は、豊前京都郡宇佐八幡宮(現在は大分県)を都とし、タルシシ船の船長.工ブス人王家のクルタシロス一世を初代王として東表国を建てた。これがわが国第一王朝の始まり(『記紀』には記されていない)で、この王名は世襲されていった(鹿島日舛著『契丹北倭記』人『邪馬壱国興亡史』新国民社参照)。ちなみに、東表国の「トウビョウ」はシュメール人王家ナーガ族の"蛇トーテム〃を表し、宇佐八幡宮の"原.語源〃はトルコのアナトリア高原にあったヒッタイトの首都「ハットウサ」を表現したものである。
また、われわれ日本人の先祖は、殷文化圏の時代から「南倭人」とも呼ばれていた。南倭人とは、南方からフェニキア人の船に乗り、製鉄文化と弥生農業を携えて渡来した人々の王家を祀る「お社」「宇佐八幡宮」の氏子という意味である。印の時代には、「鎮人」(くろがね人)夷人と書いて「倭人」と読まれていたが、のちに漢三第代の中国人が、夷または印人を漢民族ではないとし、「東夷の中に倭人がある」と考えたのは、決して誤りではなかった。従来の学説のように、もし殷人が漢民族の先祖ならば、殷人または、夷人を"非漢人"とすることはないはずである。われわれの先祖が「夷」をエミシと読んでいたのは正しく、夷とは「カナーンのエブス人」だったのである。
宇佐八幡宮の秘儀・放生会
東表国の建国史を伝える宇佐八幡宮の秘儀が、放生会として三千年以上、連綿として続けられている。この古神事は、毎年七-八月、宇佐市寄藻川河口の和間浜(ワマノハマは誤り)を中心に行われてきた。長い歴史を持つ字佐八幡宮の放生会は、次のような、3つの神事から成っている。
◎豊前、京都郡豊日別社と田川香春岳別社 古宮八幡宮の神事(3体の鏡鋳造)
◎豊前上毛郡古表神社と下毛郡古要神社の神事(クグツ船団により和間浜にむかう)
◎宇佐八幡、同神宮寺、六郷山各社の神事(細男舞奉納→放生会→本宮)
宇佐本宮では、八月一日より十三日まで、毎日、細男舞(筑紫舞か)を奉納する。続いて翌十四日には八幡神の神輿が出発し、神宮寺・六郷山衆僧は和間浜で神輿を迎え、十五日には海上で奉楽・魚貝類を放流して、クグツ舞など放生会のすべての神事を終える。そして最後に、採銅所からの御正体(神鏡)を国司が納め、儀式が終ると、地元民有志たちによる松明行列の「十列」が頓宮(浮殿)を巡り、神輿は本宮へ帰還されるのである。宇佐八幡宮の放生会は、わが国における神社の法生会としては最古の儀礼神事である。このかわらふるみややたのかがみ行事の原初の姿は、香春古宮の神鏡(または鉄製の八腿鏡)を豊日別社が受領し、国東半島の和間浜(古代の採銅所または鍛鉄所跡)経由で東表国の古都である宇佐八幡宮に納めるという神事であったが、これに後世の権現(神仏混交)信仰による「仏教儀礼」が付属したものとな史歴っている。
ちなみに、クグツ(偲偶子)は「くぐつまわし」とも呼び、平安時代から江戸時代までいた進クグツ類一種の放浪生活者のことである。大部分は偲偶と呼ぶ人形をつかう旅芸人で、古くはインドか人ら伝来したクシャトリアの漂泊民(西洋人のいうジプシー)と言われ、男は狩猟、女は遊女を説新業として、傍ら人形を舞わす芸を演じていた。室町時代(十六世紀)になると、首にかけた箱部上で人形舞をしながら旅する大道芸人になり、やがて浄瑠璃・三味線と結びついて「人形浄瑠璃」を演ずる舞台芸人へと発展した。