老松神社に封じられていたもの… |
一行は…老松神社へ。この神社に到るまで、竹◎さんとはまだ少し距離がある感じでした…
子どもたちを車にまとめて、降りないように伝え、大人5名だけで、境内へと。
老松神社は2つあり、私個人としては2つめの老松神社の方が大変かな…と思っていたので、
こちらの老松神社ははっきりいって、入った瞬間、放たれるものの強さに驚きました!
ここで本当は光のアシストを要請しなければ…と皆気づきましたが、
主要なメンバーに落ち着いてメールできる状況ではない…
もう立っているのもやっとという状況でしたから。(Mさんには、電話でお願いしました。イシス的、黄泉の国...どうしても必要と思い。)
一気に押しよせる苦しさ、寒気…待っていましたとばかりに、首の回りに異なる周波帯の響きが。
かつてないほどに。悲しみ怒り苦しみの物語、聞いて、聞いて…すべてが入り交じってやってきます。
ここで、70歳のSさんの過去生の魂の存在も感じられました。
田川の若八幡(夏吉)から繫がる流れです。
シャ〜ッという音とともに私は耳が聞こえづらくなりました。竹◎さんはあごが痛くなったということ。
前回の宗像の鎮国寺のときに、藤原さんに何かが飛び込んできたのと同じような。
いえそれ以上に、感じたことのない、強烈なエネルギー。
今日は5人、北九州からのエネルギーも感じて。私たちの力を集結させて…ここは本気で。もう引けません。私はかつてない恐怖をやや感じていました。足はガクガク…ハイヤーセルフを呼び、全員で、声を発しました。
まず、本殿にお参りして、お願いしました。後はあまり覚えていません。
こうしてまた書いていると、ぞわぞわとした感覚が思い出されました。
心を一つに束ねました。Yさんは吐きまくっています…
みんな涙が止まりません。慈愛の龍を解き放ち、ともに光へと、アセンションへと…
精一杯、ハートを伝え、磁場調整しました。池があり、石のモニュメントが数カ所あり、そのあたり一体から強烈なエネルギーがやってきます。平山観音、鎮国寺…で感じたものが濃縮されたような形。
いつもは10名前後いるのに、今日は人数も少なく…
もう思考ではとらえられない…やるしかない!
たたかうのではなく、光のあげて、慈愛の龍を解き放て…
何度も何度も光の柱をたて、あげていきました…
どんどん磁場が変化していくのを感じました。
私たちは回を重ねるたびに強くなっています…とらえらえるようになっています。
池に向かって、動きながら磁場調整し続けました。
水面がすぐに動きました…
胸から愛と真心が湧き上がりました…
神社はようやく優しさの波動に変化してゆきました。
私たちなりに最善を尽くせたと思う…(無我夢中でほとんど覚えていません)
どんな神社なのか、何を祀り、封じていたのか、今、ふたたび見てみましょう。
ちょっとじゃそっとじゃない…何かを封じている。
その封印が解かれるのを待っていた…
ここは古墳だったようです。
最近、神社と古墳がセットになったところ、そうではないかと思える場所によく導かれます。
まさに、神社とは…まつろわない存在を封じる場所であったのですね。
やまのしたのかげひめたち…が私たちを呼び続けてきた。
ようやくこの地を訪れることが出来ました。
私は神功皇后伝説や武内宿禰に関する一般的な歴史の説にはほとんど興味はないのです…
その通りであるわけないからです。
この地にいると、私の中でひとつの仮説が生まれてきました…
昨日、訪れたすべてのポイントを繋いで、それを書きたいと思います。
とにもかくにも…
真実の秘められた物語をハートバイブレーションで受け取り、龍神と女神たち…土地を癒したい…
可能であれば、最善を尽くして、いまこの時期に、開かれるべき、封印を解除したい…
ハートの意図を動き、表現しています…
以下は老松神社に関する資料です。
http://riki82.blog78.fc2.com/blog-category-25.htmlより
小郡市上岩田
老松神社
すぐ北側には甘木鉄道と大分自動車道が通っているそうです。
神社の由緒に境内に大岩窟があったとあります。古墳があるようです。
境内には五重の塔や信仰の対象となっている石材があります。
老松神社古墳(上岩田古墳群)
老松神社の本殿の北側にあります。
1号墳(径15mの円墳) 中央奥の高まりですが、北側部分が甘木鉄道に削られています。
2号墳(径12mの円墳) 南東側の一部が削られています。古い資料には古墳の石材が散在とありましたのでこのことでしょうか?
本殿の南側にも高まりがありますが、古墳かどうかは不明
ところでこの老松神社は注連縄が有名なようで、人形注縄と言う特殊な結び方のようです。境内に説明板があったのに、注意すらしませんでした。特に本殿の大人形注連は見事なようです。ところが、1枚も撮影していない。上記の1枚に鳥居の下にちょっとだけ・・・
境内の巨石の内の3つにされているのを拡大してみました。
たびたび、ひもろぎ逍遥さんを参照(感謝)省略している部分もあります。全文は…lunabura.exblog.jp/
老松神社
福岡県小郡市上岩田
羽白熊鷲に勝った神功皇后は、田油津姫攻撃に取りかかった
時には勘違いが思いがけない所へ導いてくれることがある。
この老松宮に来たのもそんな勘違いからでした。
媛社神社と天忍穂耳神社が七夕さまなら、その間には白鳥座があって、
中心付近に盤座(いわくら)でもあるんじゃない?
そう思って地図を眺めてみるけど、よく分からない。
少し北に上岩田老松神社というのがある。とりあえず行ってみよう。
その程度の考えでした。白鳥座の場所は後で見直すと見当違いでした。
参拝を済ませて、真っ暗な拝殿に向かってフラッシュ焚いてみると、左右に木像。老松神社と言えば、普通は菅原道真公を祭っています。
これらの神像もそれに関する木像でしょうか。
祭神
由緒書きがありました。
老松神社(老松宮)
祭神 菅原眷族神 高良玉垂命 住吉大神
由緒 この老松宮はもと、上岩田、井上、下岩田の氏神であり、この神の鎮座地を昔は神磐戸と称していた。上岩田の地名は、神磐戸から神磐田、上岩田と変わったのであろう
大昔、神功皇后が秋月の羽白熊鷲(はじろくまわし)を征伐せられ、次いで、筑後国山門県の田油津姫(たぶらつひめ)を滅ぼそうと、津古から舟にて得川(宝満川)を下られ、この神磐戸にお着きになった。
今の老松宮は当時の行在所の跡で、その御駐輦(ちゅうれん)の折、武内宿禰に御剣を祀らせられた。その不動岩が境内にあったが、現在は不明。又、境内に大岩窟があったが、正保年間(1644)これを破壊し、その巨石を稲吉堰の築造に利用したので、今はその跡があるだけである。 (略)
神功皇后がここにも来てる。しかも、これは仲哀天皇の崩御後だ。
そして既に羽白熊鷲とは戦った後。
次のターゲットは山門県(やまとのあがた)の田油津姫。
その為の陣営を整え直して、ここに行在所(あんざいしょ)を作ったんだ。
仲哀天皇は軍卒を励ますために廻っている時に流れ矢が当たったと
御勢大霊石神社で伝えているので、敵はずいぶん近くにいる。
すると、この時点での敵は羽白熊鷲しかいない。
流れ矢ではなく、狙われたのではないか。
この時は宝満川を挟んで戦ったのではないか。
天皇が負傷したあと、親衛隊の物部軍は血相を変えて川を渡って攻撃したはず。
その勢いに、さすがの羽白熊鷲も本拠地の秋月に押し戻された。
竹内宿禰が仲哀帝の遺骸を香椎宮から豊浦の宮に送り届けると、
神功皇后は羽白熊鷲と戦うのに躊躇しなかった。
皇后の指揮のもと、物部軍は宝満川を渡り、松峡宮、大己貴神社へと進軍した
新羅(辰韓?)との戦いを決断するのに、
あれほど占いばかりした彼女とは全く様子が違う。
神功皇后はこの時は無我夢中だったんだ。報復なのだ。
夫を殺された怒りのために、彼女に迷いはなかった。
戦いの先頭を切る彼女に、親軍は頼もしささえ感じただろう。
新たな主上の誕生だった。
そうして、ついに羽白熊鷲を討った。
でも、山門(やまと)の田油津(たぶらつ)姫は何故?
何故、田油津姫をいきなり殺したのだろう。
この時の陣地と敵方の本拠地を地図に書き込んでみました。
仲哀天皇は御勢大霊石神社で羽白熊鷲と対峙したので、宝満川を挟んでの戦いだと思われます。
「松峡神社は神功皇后の行在所」という伝承があるので、
仲哀天皇の崩御後に、皇后軍は川を渡って歩を進めたと考えます。
それから、敵をもう一歩追い詰めて、大己貴神社に出ました。
地図では朝倉市と書いてあるところのすぐ北に大己貴神社はあります。
そして、ついに羽白熊鷲を滅ぼしました。
その後の攻撃目標は田油津姫。彼女のクニはかなり下流です。
皇后軍はこの老松神社に陣営を構えました。
「津古(つこ)から船で」と書いてあることから、ここは岬か島だったようです。(標高18m)
この先、物部の本営たる高良山までは、皇后を連れて行っても大丈夫です。
しかし、彼女を南下させたかどうかは疑問。
戦場に皇后を連れて行って、主上を再び失う失態など、もうあり得ない。
神功皇后はこの老松宮に留まったのかも知れない。
不動岩と古墳
由緒書きでは、神功皇后の時代には不動岩があったという。
やったね。まさか、盤座があったとは。
神磐戸とまで呼ばれていたので、ここは聖地だったんだ。
竹内宿禰に剣を祀らせたというから、いつものように銅剣だろう。
「大岩窟があった」というのは、古墳の石室ではなかったかと思いました。
というのも、境内にはこのように石が並べられていたのです。
半サークル状に並べてあるので、独特の雰囲気を醸し出しています。
後で小郡市誌を開くと、やっぱりこの境内には二つの古墳がありました。
老松神社古墳(上岩田古墳群)
一号墳は規模が直径15m。見かけの高さ1.5m。
二号墳は直径12m。見かけの高さ3m。時期は不明。
これは境内右手の猿田彦の石碑です。加工した岩もごろごろとしています。
その裏手の少し高くなっている所が、古墳だったのかもしれませんね。
ここは宝満川の近くなので、大きな洪水があれば川に洗われてしまい、
表土が流れて石室が露出した可能性があるかもとおもいました。
「1644年に大岩窟を破壊して巨石を稲吉の堰に再利用した」とあるので、
あの媛社神社の近くに運ばれたようです。
上岩田注連ねりそうそう、ここの「人形しめ」を忘れちゃならない。
正式には「上岩田注連(しめ)ねり」と言うそうです。
ここだけの注連縄で、代々その創り方が受け継がれています。
それに加えて、神殿には鬼面が。
(中略)
これまで見た鬼面の中では、高良下宮社に一番近い感じ。
この神社は江戸時代後期に再建されています。
帰ってから地図を見直すと、あれ?
ここは筑紫の飛鳥のそばでした。
以上、引用終わり…