テーベ…水門を開いて!シリウスへ。その1 |
海藻と野菜をたくさん食べました。エネルギーチャージ。車の中でやはり腕がだるく…早く神◎さんのご友人にブレスレットを創っていただこう!と思いました。
それで、主人とこどもたちが犬の散歩に行っている間に…また車の中で爆睡。どんどん癒されていくのがわかりました。癒しの龍がいっしょについて来ています。家にもどり、お風呂に入って、いま、スイッチ点火しました。メッセージがきました。指令のメッセージが入りました。
今日のセッションから繫がる流れです…余韻の残るセッションでした。
今日、実に大きなセッションを成し遂げました…2人ともそれはそれは…霊力の強い人たちでしたから。私たちもよくやりました…
ひとり目、Oさんのセッションに関しては、藤原さんが書きます。完璧なタイミングでした。鮮やかに産み出しました。彼女の人生がどれだけ変化していくか想像できます。私たち、全員、泣いて、感動しました。魂の解放…を全員で受け止め、完全解除しました。(詳しくは…また後ほど)
重要な龍。本州と九州を繋ぐ龍。それは本当に大きな意味を持っています。新しい奇跡を体感させて頂きました。
今日の2人のセッションに先立って、昨夜は私に大きなものが押し寄せました。夜中の3時頃に、やまのしたのかげ…やめつひめ、山門、八女の光景、くずちめ…うつしこめ…いかずちのかみ…などのキーワードが。魂は何を伝えようとしているのでしょうか…
私を探して…間に合わないかも知れない……もう少しなのに…。と私が私自身に伝えています…胸が苦しくなり、のどが痛くなり…咳が止まらないのです。
藤原さんに押し出してもらい、背中からヒーリングしてもらいました。うめき声とうなり声が出ました…
埋もれている…胸にびっしりこけが生えている…乾いている…水がほしい…目を開けることが出来ません。
歴史を辿っても、どこを見ても見つからない…完全に封印しているんだ…どうせトリックなのだ…そのような自問自答が押し寄せました…
ひとしきり…咳をし続けると…呼吸がすごく楽になり、静かに眠りにつきました。
それでも。朝はまだ身体がきつくて…
セッション前にワラワラして、子どもたちの部屋で休んでいましたら、ちょうど20分経過したくらいから、ふっと軽くなってきました。
情報がしっかり入ってきました…うまくいっていることがわかりました…
遠隔で光を送り、受信し続けました…最後に部屋を開けて入ると、魂の光で部屋中が充満しており、涙が溢れてきました。すでに藤原さんが泣きながらヒーリングしていました。仲間の龍の魂が光にあがっていくのは…喜び以上の…言葉を超えたものです。
奥深くのとらわれた想いを、記憶を…吐き続けていました。
Oさんは、身体が小刻みに震えて、短く速い呼吸で古いエネルギーを解放するのに精一杯でした。まるで本当に命の蘇生、新しいお誕生です。
どんどん楽になって、輝き喜ぶのをいっしょに感じました…本当にうまく行きました!
セッション終了後、とても清生とした気持ちになり…また訪れてくるキーワードを繋いでいました。
いかうつしこめ、うつしこめ、いかづちのかみ、たけみなかた…いかだ…ボルネオ…烏賊…
昨日は辛島氏について、鹿児島について、繋げました。宇豆彦、珍彦、宇佐津彦…からの流れを繋げて山下影姫を辿ります。
眠りにつくまえに、事代主、タケミナカタ、タケミナズチ、アジスキタカヒコネ…宗像3女神…へと繫がる流れを感じていました…
中臣ー蘇我ー物部−葛城、鴨のルーツが絡み合っています。水軍の大きな流れ…拠点を繋ぐ…
神の名前を変えたり、系図を隠したり、それはそれは巧妙に出自をわからなくしているのですから、用心深く手がかりを繋げていくよりほかありません。
それからメッセージを繋いでいくこと…
以下はひもろぎ逍遥さんの系図から…
昨日は、辛島氏の系譜からつなぎ、大きな発見がありました…
孝元天皇の后…孝元天皇は金首露王と言う説があり、その王妃は許黄 なのですが、他の后もいるでしょうから…ウチシコメとは、異なる人物でしょうか。
内色許男命之女、伊迦賀色許賣命…興味深いのは…許という字が入っていることです…
許(きょ)は…居でもあります。金官加羅4代目王は、居叱弥(武内宿禰)という説もあります…
その母は…好仇です。(資料はほとんどないようです)
以下はhttp://blog.daum.net/より
(孝靈天皇) 此天皇、娶穂積臣等之祖、内色許男命 妹、内色許賣命。生御子、
大毘古命(大彦命= 孝元天皇)。
次、少名日子建猪心命。(= 建膽心大禮命)?? (정체불명의 인물이 들어감) <== 夜麻登登母母曾毘賣命= 倭迹迹日百襲姫命이 들어가야 함.
次、若倭根子日子大毘毘命(= 開化天皇)。
====>
(孝靈天皇) 此天皇、娶十市縣主之祖、大目之女、名細比賣命、生御子、
大毘古命(大彦命= 孝元天皇)
次、夜麻登登母母曾毘賣命(= 倭迹迹日百襲姫命).
次、若倭根子日子大毘毘命(= 開化天皇)。
*http://kumoi1.web.fc2.com/CCP121.html
○少名日子建猪心命(すくなびこたけいごころのみこと)。
「日子」の「日」は少名毘古那神の例によって、濁って読む。
「少名日子」は 兄の「大毘古」に対して言う名で、【いにしえは「大」と「少」を対照的に使った例が多い。】
「猪心(いごころ)」は勇猛な心を言うのだろう。
【書紀に「男心(おごころ:旧仮名ヲゴコロ))」とあるのを考えれば、「猪(ゐ)」は「緒(を)」の誤りのようにも思えるが、】
書紀の景行の巻(三年)に「屋主忍男武雄心(やぬしおしおたけおごころ:旧仮名ヤヌシオシヲタケヲゴコロ)命とあるのを、「一にいわく、武猪心(たけいごころ:旧仮名タケヰゴコロ)」とある。
旧事紀には、伊香色雄命の子に「建膽心大禰(たけいごころおおね:旧仮名タケイゴコロオホネ)命【「猪(ヰ)」と「膽(イ)」では音が違うが、似ているので引いた。】という名もある。
【とすると「男心」とも「猪心」とも伝わったのだ。】
*内色許賣命= 豊鋤入日賣命= 崇神天皇.
又娶 内色許男命之女、伊迦賀色許賣命(伊香色許賣命= 伊香色迷命)、生御子、
比古布都押之信命(ひこふつおしのまこと)。
====>
(建御名方命) 又娶 彦坐王之女、伊迦賀色許賣命(伊香色許賣命= 伊香色迷命)、生御子、
内色許男命= 崇神天皇。
====>
(孝元天皇)
又娶 彦坐王之女、伊迦賀色許賣命(伊香色許賣命= 伊香色迷命)、生御子、
比古布都押之信命= 彦太忍信命。
*比古布都押之信命(ひこふつおしのまこと)= 彦太忍信命(ひこふつおしのまこと)。
---------------------------------------------------------------
(( http://homepage1.nifty.com/moritaya/kokuzou12.html
日本書紀では 武内宿禰の親は 屋主忍男武雄心命となって いる。亦の名 武猪心。
紀直の遠祖 菟道彦女 影媛が 母親である。
古事記では 比古布都押之信命と、木国造 宇豆比古妹 山下影日売となっている。
日本書紀の彦太忍信命からすると
屋主=比古=彦、太=布都、押=忍、信=心といったところのリンク状態です。
古事記では 5人である。
大彦命、開化帝、少名日子建猪心命、比古布都押之信命、建波邇夜須比古。
日本書紀では、4男1女である。
大彦命、開化帝、ヤマトトトヒメ、彦太忍信命、武埴安彦命。
*屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころ)
*少名日子建猪心命(すくなひこたけいごころ) ))
-----------------------------------------------------------
又娶 河内青玉之女、名波邇夜須毘賣。生御子、
建波邇夜須毘古命(たけはにやすびこ, = 建波邇安王, 武埴安彦(たけはにやすひこ)。
此天皇之御子等、并五柱。
故、若倭根子日子大毘毘命者(開化天皇)、治天下也。
其兄大毘古命之子、
建沼河別命者、(たけぬなかわわけ)〈 阿倍臣等之祖。 〉
次、比古伊那許士別命(= 比古伊那許土別命)〈 此者 膳臣之祖也。 〉
===>
其兄大毘古命之子、
建沼河別命者、(たけぬなかわわけ)〈 阿倍臣等之祖。 〉
次、比古伊那許士別命(= 比古伊那許土別命)〈 此者 膳臣之祖也。 〉
比古布都押之信命、娶尾張連等之祖、意富那毘之妹、葛城之高千那毘賣、生子、
味師内宿禰。〈 此者、山代内臣之祖也。 〉
*高千那毘賣=
*味師内宿禰(うましうち)=
(武雄心命) 又娶木國造之祖、宇豆比古之妹、山下影日賣、生子、
建内宿禰。
此建内宿禰之子、并九。〈 男七。女二 〉
波多八代宿禰者、〈 波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。 〉
次、許勢小柄宿禰者、〈 許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也。 〉
次、蘇賀石河宿禰者、〈 蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。 〉次、平群都久宿禰者、〈 平群臣、佐和良臣、馬御〓連等祖也。 〉
次、木角宿禰者、 〈 木臣、都奴臣、坂本臣之祖。 〉
次、久米能摩伊刀比賣。
次、怒能伊呂比賣。
次、葛城長江曾都毘古者、〈 玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也。 〉
又 若子宿禰、 〈 江野財臣之祖。 〉
此天皇御年、伍拾漆歳。御陵在劔池之中岡上也。
(57살)
*http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/6-1-ounabi.html
〔古事記 孝靈天皇〕
大倭根子日子賦斗邇命、坐黒田廬戸宮、治天下也。
(孝靈天皇)此天皇、娶十市縣主之祖、大目之女、名細比賣命、生御子、
大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
イカという響きと、ウチ、ウツという響きにヒントがあるでしょう。
まず、イカは…伊香であり、物部系か。
イカ…はいかづちの烏賊(中臣の祖/壱岐氏の祖、対馬、壱岐の祖)また雷(イカズチ)ノカミも中臣の祖。
ウチ…は内
ウツ…は宇豆、渦、鬱、宇津…
昨日は、辛島氏の流れから、鹿児島の韓国宇豆峯神社に繋げました。
鬱…鬱陵島で調べてみました。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鬱陵島
各種表記
ハングル:울릉도
漢字:鬱陵島
日本語読み:うつりょうとう
現地語読み:ウルルンド
ローマ字転写:Ulleung-do
鬱陵島の衛星写真(上が北)
鬱陵島(うつりょうとう、Ulleungdo ウルルンド)は日本海に浮かぶ直径10km程度の火山島。朝鮮半島から約130km沖合いに位置する。大韓民国慶尚北道浦項市から約217km、船で3時間かかる。日本では、ラジオ放送の気象通報などにおいて鬱陵島の観測情報が読まれているため、韓国の島でありながらもこの島を知る人が多い。この島の最高峰は聖人峯(ソンインボン、성인봉)で標高984m。平地はほとんどなく、道が悪いので車はほとんどが四輪駆動車である。住民の4割が漁業、2割が農業に従事している。旧日本名は磯竹島(竹島)。西洋においてはかつては「Dagelet」と呼ばれていた。竹嶼(죽서)と観音島(관음도)という島が付属している。
所属:大韓民国慶尚北道鬱陵郡
面積:72.82km²
人口:約1万160人(2007年)
歴史
三国史記によると、この島は于山国として独立していたが、512年に朝鮮本土の国(新羅)に服属させられ、11世紀初頭には女真の侵攻によって滅びたと考えられている。やがて女真が滅びると朝鮮の支配下になるが、この島は朝鮮本土より遠隔地の海上にあり監察使が頻繁に来ることができないため、兵役や税を逃れる者が本土より多数移住していた。
倭寇対策としての「空島」政策
13世紀から16世紀にかけて朝鮮本土や中国を荒らしまわっていた「倭寇」と呼ばれる海賊が鬱陵島を拠点に朝鮮本土を襲ったり、鬱陵島の島民までもが倭寇を装って(仮倭という[1])半島本土を襲うことがあったため、1417年、李氏朝鮮の太宗はこの対策として、同島の居住者に本土への移住を命じた。いわゆる「空島政策」の発令で、その後460年以上に渡って無人島となった。
竹島一件
日本の江戸幕府の許可を得た隠岐の漁師などが、空島となった鬱陵島へ行き海産物や竹などを採取していたが、このとき朝鮮本土より密漁に来ていた朝鮮人を見つけ日本へ連行、幕府が李氏朝鮮へ抗議する。自国領だとする朝鮮がこれに反発。日朝間で長期間論争が続いたが、17世紀末の徳川5代将軍綱吉の時、日本から渡航させない旨を李氏朝鮮に伝え、日本の漁師達が幕府の許可を得て渡航することはなくなった(竹島一件)。
朝鮮王朝時代の記録によれば、晴れた日には鬱陵島が望洋亭や召公臺など、朝鮮半島の東岸部から見えるとの記載がある。
1745年(英祖21年)に成稿した李孟休の『春官志』には、「蓋しこの島、その竹を産するを以ての故に竹島と謂い。三峯ありてか三峯島と謂う。于山、羽陵、蔚陵、武陵、磯竹島に至りては、皆、音号転訛して然るなり」とあり、古くは竹島・三峯島・于山・羽陵・蔚陵・武陵・磯竹島などとも呼ばれ、竹を産していたことが分かる。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
古代は非常に重要な拠点だったはず。現在まで、大きな争いの火種になってきたことはご承知でしょう。
また別の資料では…
藤田亮策「鬱陵島略史(特輯 鬱陵島)」『観光朝鮮』第2巻3号 1940年5月 30-33頁
鬱陵島略史
藤田亮策
鬱陵島の最も早い調査者(てうさしや)なる鳥居博士[註:鳥居龍藏(1870-1953)(東京帝国大学教授 考古学・人類学)]は、古事記(こじき)に 見ゆる葦原(あしはら)の中つ国の宇佐島とは芋山島即ち鬱陵島であると説かれ[、]黑板博士[註:黑板勝美(1874-1946)(東京帝国大学文学部教 授 日本古代史)]亦親しく此島を巡られて浦島子の龍宮とは此島を指すものとも考へられる出雲の浦人は早く韓国(カラクニ)に渡り此島にも往来して居た為 めにかゝる伝説(でんせつ)が出来たのではないかと説かれたのは面白い。
まことに日本海の真直中の暖流(だんりう)の中に夢の像に浮び出た只一 つの島鬱陵島は、鬱蒼(うつそう)たる樹林に被はれ、四面懸絶の岩壁をなして深碧の浪の中に立ち、海の幸(さち)山の幸(さち)も豊にして孤舟に棹さして 来た人々が、之を以て蓬莱山が神仙の住処と考へたのは無理もない。古来幾多の興味ある伝説々話も伝へられたであらふが、今之を知るに由なく、又屡々無人島 となつた為に、其正しい歴史さへも知ることが出来ない。
只此島が近世に至つて対馬(つしま)と朝鮮、又朝鮮と鳥取藩との間に所属(しよぞく)の 争が起り、一つの島に別々の名がつけられて、又英国船は此島を測量して更に別名を附し、一つの島が三つの名をもつに至つたのも、因縁(ゐんえん)は此島の 地理的位置にあつて生じた興味深い沿革を自ら物語るものである。
○
鬱陵島の最初に知られたのは新羅(しんら)の時で、之を 于山国といひ、智證王十三年の夏、何西良州(江陵)軍主異斯夫[いしふ 朝鮮読み:イサブ]が、人形の獅子を船に載せて島人を欺き、遂に服属せしめたと伝 へて居る。島の名を鬱陵・迂陵・于陵・羽陵・蔚陵・于山等と書くのはウリヤン又はウサンの音を写しただけで、朝鮮に於ては其名は古来変つて居ない。
新羅の頃の于山国は済州島(さいしうとう)と同じく独立の小国で相当の人口を有し物産も豊であり、江原道の悉直方面との往来もあつたらしい。于山国時代の 古墳は島山数箇所に見られ、大石を築いて石室(いしむろ)を作り其上を塊石で覆ふて一称の積石塚をなし、副葬品は所謂新羅焼・鉄剣其他であつて慶尚道古新 羅のものと全く同一である。石を積んで塚としたのは風雨の劇しいのと石の多い為めかと思はれる。只石室古墳も又所謂新羅焼の副葬品も、全く同じ構造(こう ぞう)と形式のものが出雲を初め山陰・山陽の各地に見ることが出来、上代の遺墳(ゐふん)を通じての文化の共通なることは日本海を隔てゝも同様であり、鬱 陵島亦同じ範疇内にあることによつて、半島と我国との交通路は此島を橋としたものが一つあつたことを考へしめるのであろう。
此島に住んで居たの は実はもつと古い石器時代以来のことで、鳥居博士の調査によると数箇所に包含遺跡が発見され、赭色土器などは慶尚北道・江原道等の海岸地方のものに類似 (るゐじ)し、山陰地方のものにも類似のものがあるといふ。石器/時代以来、我国と半島の交通の頻繁(ひんぱん)であったことは遺物(ゐぶつ)の示す所に よつて疑ふことは出来ないが、或は此島を橋とする一つのルートも石器時代以来のものであるかも知れない。出雲風土記の国引の古事に、新羅の三埼をひきよせ て杵築の崎としたといふ伝説は、出雲人の新羅に対する古い時代の交渉を語るものゝ様に思はれる。新羅の半島統一時代にはやはり此島人は新羅に貢物(みつぎもの)を送つて属国の礼を執つて居たらしく、其時代の舎利壺の破片の発見されてゐるのは、新羅の文化の伝へられて居た証拠(しようこ)である。(以下は省略)
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
いろいろな事を感じながら、午後3時より、また大切なセッションが始まりました…
藤原さんのレポートです。