♪ますます…ユニティへ |
今日、岩村さんからこんなお知らせメールが藤原さんに届きました。
一昨日、ばったり嘯吹八幡神社・豊前市の奥さんに出会いました。
藤原さんのお話が出ました。
宮司さんは、初山さんといいますが、もとは藤原さんのようです。
豊前市の金富神社の名前にあるように、「富」がつく所は、中臣氏とのご縁が深い仲津郡中臣村のようです。
この辺りの谷の神社の宮司さんは、藤原姓の方がおられるようですよ。
それに対して、藤原さん(主人)は、こんなお返事をしました。
岩村さん、嘯吹八幡神社さんの宮司さんとお知り合いなのですね!
先月、仲間のみなさんと磁場調整にその地域を回り、
嘯吹八幡神社にも行きました。拝殿と拝殿との間が、素晴らしいエネルギーの通路になっていた事、思い出されます。
皆さんビリビリと感じたり、メッセージをもらっていた方もいました。
ひょっとすると奥の拝殿内から漏れていたエネルギーの通路に反応していたのかもしれません。
また、「藤原」情報もありがとうございます。
「金」=中臣氏の始祖が金氏、キム•スロの金?クルタシロス王=孝元天皇?
同祖を分断した、大化の改新後の物部氏、中臣氏などの部族の再統合が重要なようです。
深い所ではまだ、戦いつづけているようです。
「アセンンション」に向けての最重要課題のようです。
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岩村さんとも…深いご縁で結ばれていること、互いに感じています。
奥様のお顔立ちも…とてもエキゾチックですね。いろいろな転生でご一緒だったことでしょう。
さて…今週の月曜日に志賀海神社や香椎宮を訪れて以来、また新たにスイッチがオンされました。
神社という場所は、やはりそういう場所なんだな〜と実感。径絡にエネルギーが通じる感じです。
ずいぶんと体調も回復してきました。
眠ってばかりの数日を経て、グラウンディング期を迎えています。
おでこ、耳のど、鼻、目…がとにかくぼんやりしていたのですが、たくさん分泌物が出て、かなりクリアになっています…
また…山下影媛なる存在が私を動かします…
昨日の夢では…金官加羅の金首露王の皇后、許(ホ)黄玉(ファンオク)の名前から…武内宿禰がその4代先の王にあたる説もあるので、
その母である影媛についてイメージを広げましたが、資料がほとんどなくて、わかりませんでした。
金官加羅の詳細については…日韓両方ともきわめて資料が少ないのだそうです。のちに(吸収された)新羅については資料はあるようですが。
許…(きょ)であり、武内宿禰の子孫である、巨勢氏の巨ともつながるな…などとも考えられ…
◎奈良県高市郡に、許世都比古命神社(こせひこのみことじんじゃ)があります。
祭神は…武内宿禰の第5子、巨勢氏の祖、巨勢小柄宿禰です。
◎また…糸島にある志登神社…(近く行く予定)こちらは対馬の綿津見神社や、久留米の高良大社に関わり深いようです。
ご祭神は豊玉姫式内社
相殿 和多津見神 息長帯姫 彦火々出見尊 武内宿禰命
相殿 高祖明神 志賀明神 神功皇后 高良明神 です。
豊玉姫が彦火火出見尊を追って上陸した地として志登神社は有名。
伊都国には天孫降臨の地が櫛触山(クシフル山)ではないかという説もあります。
糸島にはほかにも重要な遺跡がたくさんあります。(お店にキャンドルを置かせて頂いているキャンドル作家の方が北九州から移住されました!)
(その方のお名前も…姫氏に関わり深い名字のようです。)今度、皆で訪れたいと思いを馳せています…
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話は戻ります…
山下影姫は辛島氏の流れとも、また事代主の流れとも。事代主…鴨王のことか。松重揚江氏の説によると…事代主は公孫康
これまでの磁場調整において…辛島氏に関係深い70代のSueさん、昨日のセッションのYさん(鹿児島出身)…
葛原に関係深く(宇佐葛原古墳、小倉葛原古墳)、また福津の手光波切不動尊古墳や、宮地嶽神社古墳(磐井葛子か藤大明神)
また…先日訪れた、宗像鐘崎の葛原神社(山下影姫を祀る)などにも霊的反応が強い…
昨日、あげた辛島氏の系図をもういちど載せます…
以下は大和秀雄著の「日本にあった朝鮮王国」より。(岩村さんにずいぶん前に進められて読んでいましたが、あらためて読んでいます)
中野幡能は(歴史研究者)八幡神の降臨伝承を、三国遺事の加羅国の始祖王
中野幡能は、八幡神の降臨伝承を三国遺事の加羅国の始祖王首露の亀旨峯への降臨神話と重ねて、宇佐郡にもクジ峰にそっくりの山があり、稲積山といっている。ここには、スエ村があり、古くから辛島氏が住んでいた、と書き、稲積山といっている。ここには、スエ村があり、古くから辛島氏が住んでいたと書き、稲積山に降臨した神に辛島氏は奉仕していたと推測していて、辛島氏は香春神社の祭祀氏族の赤染氏と同族またはそのものと見ている。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
辛島は韓島であり、加羅島でもある。
辛島の居住地は辛島郷であり、六月に仲間と訪れた豊前、宇佐の地場調整の旅の最終ポイント周辺一体でしょう。そこには小倉池があった…あのあたりは、葛原郷と呼ばれている。さきほども書きましたが、主人の祖父の故郷です。
武内宿禰の母、山下影姫は宇豆彦の妹であるとされる。宇豆は、珍、尊、太とも書き、美称、敬称でもある。秦氏の統領のことを太秦うずまさという。まさは、勝とも書くのです。まさに、大統領というわけだ。この人物は誰だっただろう、東表国、宇佐の神事にも深く関わるの最重要人物だったに違いない。やはり、影姫は加羅に関わり深い人物だったとわかります。
宇佐稲積山周辺が辛島郷、稲積という地名は、鹿児島県の大隅にもある。大隅の地は、隼人の地とわかるが、ここには大隅国の創立以前から、移住者がいた…また、宇佐の辛島郷である、稲積や同族である豊前の人々が移住した地と想像できます。
これは、断言できませんが、仲間のsueさんのご主人の故郷である、吉富町上毛あたりも辛島郷でないかと思います。香春岳周辺はもちろん、豊前にも辛島郷がいくつかあり、そうした人々と鹿児島の大隅国の人々は繋がっているのです。
またまた、京田辺も大隈隼人の移住先だった事で知られています。ここにも、親友が小倉から転勤して行き、住んでいます。私たちのグループソウル、大和の地のグリッドマスターです。凄く繋がっていますね。
〜以下も、先述の著書からの抜粋引用。〜
韓国宇豆峯神社と韓国岳
新しく移住した人々は、香春郷の桑原の地名をとって新しい郡の名前を桑原郡と称した。桑原郡の鹿児島神社、屋久島の益救神社、曽於郡の韓国宇豆峯神社、大穴持神社、宮浦神社である。
霧島山の最高峰を韓国岳と今もいうが、小さな峰だけでなく、高峰もまた、韓国宇佐豆高島つまり、韓国城であるから、桑原、曽於のひとびとは、故郷の香春岳と霧島山を重ね、霧島山も韓国宇豆峯とみた。
鹿児島神社のカゴについて
香春岳は、カゴ山で、カゴは朝鮮語で胴を意味する。霧島神宮の南にカゴ山という地名がある。カゴ島、カゴ山の地名は、宇佐の辛島郷の稲積山や、香春の桑原の地名と同じく、豊前の秦王国から来た人々によるものであろう。カルとカゴは同義語である。話は変わりますが、大隈国府の推定地とされる国分市府中の亀甲にある地下式横穴古墳から出土した、金銅製三累環塚頭大刀を指摘することができる。これは、朝鮮半島南部の古新羅や加耶地方から出土するものといわれ、半島では5・6世紀に盛んに使われていたという。
大隈、薩摩の亀甲、亀山の地名は、新羅、加耶系(羅・洛)遺物や八幡宮、秦氏にかかわる以上、亀旨に神の子が降ったとされる始祖王伝承と無関係ではない。
ここでひらめく…系図でしか、登場しない、またいくつかの武内神社に祀られている(九州のみの)山下影姫を調べていて、辛島氏の流れ。という記事は多いが、事代主神の系譜か、と言われている記事を1件のみ発見したばかりだった。
ウズヒコは、鹿児島にある、韓国宇豆峯神社の宇豆か…
事代主は、鴨王であり、鴨氏は、南九州の出自か…
辛島ー鹿児島の辛島でー鴨氏…やっぱり繫がる!
以下は以前のブログより
▼秦氏は新羅系加羅人だった
秦氏の渡来は五世紀後半以降、数度にわたりあったとされている。秦氏は新羅系加羅人と思われる。六世紀半ばに加羅は新羅に吸収されるが、その前から加羅には新羅人が多く住んでいた。秦氏もそういう一族である。「辛国」のカラとは、秦氏の故地である「加羅」を指している。
香春社の神官は、赤染氏と鶴賀氏である。どちらも秦氏一族である。後者の「鶴賀」は「敦賀」と同音であり、その「ツルガ」とは書紀にある「オホカラの王 子ツヌガアラシト」の上陸地(福井県・ケヒの浦)にちなむものである。その名は「大加羅の王子ツヌガ」であり、「アラシト」とは加羅の一邑・安羅の人の意 である(「アル」=「卵」とも考えられるが。後述)。秦氏も多く居住した敦賀には気比(けひ)社がある。八幡神とされる応神天皇(ホムタワケ)には、この 気比の神(イザサワケ)と名を交換し合ったという、紀記に載る意味深長な伝承もある。
香春社の主祭神・オシホネ命の「シホ」についてはすでに述べたが、1313年成立の『八幡宮宇佐御託宣集』(以下『宇佐託宣集』)によれば「八幡神は天 童の姿で日本の辛国の城(き:峯、山)に降臨し、そこは神武天皇再臨の蘇於峯(そほだけ)である」とある。「辛国の城」とは、秦氏の神山であった豊前・香 春岳に他ならない。「ソホ」ついては前述の通りだが、新羅の始祖王カクコセは「ソフル」の聖林(ソフル)に、加羅の初代王シュロは「ソフル」である亀旨 (くじ)峯に降臨した。
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やっぱり…首露王は…孝元天皇であり、中臣の祖であり、辛島の祖であり、蘇我の祖でもあるのか…そしてそれは、後世、秦氏と総称して呼ばれる…
さらに…以前のブログを見てみよう。
663年に白村江の戦いがあったが、これには日本軍として宇佐の辛島氏も従軍した。白村江での敗戦は、ニッポンの「日本」化を加速させた。おそらく 712年、辛島郡鷹居社の八幡神は、中央の意向を汲んだ大神氏領導のもとに、土豪宇佐氏神域の小山田に移った。同年の古事記、続く720年の日本書紀の撰 上は、古代ニッポンの神祇体制の完成を告げるものである。これを受けるように、725年、ついに八幡神は小山田から現在地の小倉山に遷座した。今に続く宇 佐八幡宮の誕生である。
国家神への転換は、720年の大隅隼人叛乱に際し、大伴旅人率いる征伐軍に、おそらく大神氏に教唆されて八幡宮禰宜(ねぎ)「辛島」ハトメの神軍が参加 したことで、はずみがついたことだろう。737年には、朝廷は伊勢神宮などと共に八幡宮にも奉幣し新羅の無礼を報告、740年には藤原広嗣乱の平定を祈願し、翌年は乱平定の報賽(ほうさい)として金字の最勝王経(神様にお経!)などが奉納されている。745年、聖武天皇のご病気に際しては平癒祈願があり、 翌年には三位に叙任される。749年、大仏造立のための黄金出土を託宣(見事に的中!)、次いで東大寺鎮守・手向山八幡宮として堂々の入京となる。
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▼和気清麻呂と秦氏
前述の、河内秦氏の鍛冶・鋳造神、高尾社のヌテシ「ワケ」命は、実は和気清麻呂の和気氏の始祖でもある。ヌテシワケ命は河内国高尾山に葬られ、そこに高 尾社として祭られていたが、後ちに和気氏が備前国に遷座し、氏神和気社を創ったとされる。和気清麻呂とは通称で、本名を「磐梨(いわなし)別公(わけのき み)」と言う。つまり、イワナシ氏というのが、和気(ワケとは「別」で、石と鉱石を分けること)氏の本姓であり、備前国石生(いわなし:石が金属に成り変 わること)郷がその本拠地である。
イワナシ(和気)氏も鍛冶・鋳造に関わる氏族であったが、高尾社の因縁からも分かるように、秦氏と深く結び付いている。清麻呂がなぜ宇佐八幡宮の託宣を 確かめに派遣されたのか。また、それで称徳天皇のご勘気を蒙ったが、なぜ大隅に流されたのか。さらに、召還後すぐになぜ豊前国司に任ぜられたのか。いずれ も秦氏の縁地であった。清麻呂はその後、山背秦氏の「高尾」山寺(後ちの神護寺)の復興にも関わった。またさらに…なぜ、清麻呂は、小倉の足立山−安部山−霧ヶ峰−湯川に滞在したのか?本当の理由とは?以前、竹和山(昔の足立山の呼び名)が四国の剣山と同じ緯度であることを知り、引用しましたが…
それでいま、はっきり気づいたのですが、この足立山周辺、葛原周辺は、やはり企聞半島の辛島郷だったのです。
ということは、新羅や加羅に関わり深い人々の住む地だったのでしょう。宇佐、国東と海路で最も近い地域だからです。門司にはあれだけの鉱山が海岸沿いにありますよね。カル島があります!
吉田綿津見神社は対馬綿津見神社とゆかり深く、海に面していたことも以前のブログにてお伝えしました。
吉田には古墳もたくさんあります。曽根周辺にも古墳はたくさん。北九州空港周辺古墳は、陶器を創っていた人々の墳墓ではないかと言われているようです。沼という地名は建沼河男命に繫がる地名ー建沼河男命は、孝元天皇に繫がる人物、蘇我氏の祖タケヌナカワワケ、建族の祖。武内宿禰の父の兄弟の子と言われています。
蘇我氏の 祖ということは…やはり辛島氏と繫がる。沼も辛島郷だったのだろう(個人的仮説)
企救半島は、門司、彦島、下関とも、繫がっており、陸路を通って宗像とは、最短ルート。
非常に重要な場所だったことがわかります。
吉田…宗像鎮国寺周辺は吉田の地、織機神社…豊前の綾幡とも繫がる…
吉田ー占部、ト部姓多く、壱と対馬との関わり強い。吉田ー壱岐氏ー中臣氏の祖(武内宿禰と壱岐真根子との関係)
あきらかに、蘇我氏と中臣氏の祖は固い絆で結ばれていたことの証明。2人ともさにわ同士。
古代の九州の地はまさに…いろいろな国々の人々が融合するメルティングスポットだったのでしょう。
古代九州においては…まさに倭国時代は…東表国(とうびょうこく)の1000年王朝全盛期。
物部、中臣、蘇我、大伴の祖たちが連合して、国の王をたてていた…そして巫女と王とで国をおさめていた…
海人と鉄で栄えた、シャーマン国家であったと…ハートで理解できます。
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以下は、http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101278_3.htmlより引用
阿 ア
・ア、オ、オオは同じ
・百済のクはオ(阿)、オオ(大)
・大ノ国は後の百済、及び加耶地方の総称で、大加耶国(おおかや)、安羅国(あら)と称し、此の地より渡来した集団は、大野、安部、阿部(あべ)等を名乗った。また、阿(あ、お)はクマと読まれて、熊ノ国とも称し・・・
安 ア
・阿と同じ用いられ、またヤスに転ずる。古事記の高天ヶ原とは大加耶(意富加羅国)の高霊(たがま)郡の地である。
・此の地に居住していた海洋民の越族は韓族の南下により、縄文・弥生時代に我ヶ国へ大量移住し、母国の名を冠して安部・阿部と称す。
阿部には阿部高田姫の名があり、阿部と和徳と関与しており、佐田・高田(阿部)と通じていると前から思っていましたが、・・又、東北に阿部郡磐井の地があり、九州の磐井は古代の「君姓。」
武列天皇の頃くらいまで消息があり古代に活躍していたと思われ、磐井は「白石」が名のった。後世白石は清和源氏。藤原に入ると高倉になるという。
阿部は大彦命に関与しているようで、切れ切れながら服部氏に関係してくるように思う。
新羅におほ氏がおり、「天狭霧尊」の子孫。この神や国常立尊・豊国主尊などは「葉木国尊」の別名を持つ系統で、狭霧尊は天祖天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊。
・大ノ国の渡来集団を阿部(あべ)と称し、其の居住地を大と呼んだ。大は、意宇、意布、意冨の地名を付け、また大野、小野とも名付ける。是等の地名に阿部氏、安部氏は多く存す。
・阿部族の源流は越族である。
・しかし、北方の満州地方に住んでいた韓民族の夫余族(後の高句麗、百済を興す)の南下移動により、押出された越族は出雲国古志郡、北越地方(越ノ国)へ 上陸し、日本全国の地へ移住する。越族は其の首領を、大ノ国の王と呼んで大彦命(阿部族首領の代々の襲名)を崇め、古志王神社の祭神とした。阿部族は最大 の渡来集団にて、其の一族で物を作る集団を物部と称した。
・八千矛神、高志国の沼河比売を婚はむとして幸行でましし時、その沼河比売の家に到りて歌ひたまふ」と見ゆ。沼河比売は越後国頚城郡沼川郷の奴奈川神社の 娘なり。また、東日流外三郡誌に¬耶馬台之国続く処領、大祖建沼河別命なる君主の地なり。その胤、安日彦・長髄彦、二柱ぞ荒吐族の大祖なり」と見ゆ。神武 東征に敗れた耶馬台(やまと)の長髄彦兄弟は建沼河別命の子孫と伝える。孝元天皇の子・大毘古命、その長子に四道将軍の一人建沼河別命あり、是も襲名であ る。大毘古の次子大稲輿命は越国造の祖であり、延喜式の古志郡伊奈具志神社は此の国造の祖廟たり(地名辞書)と。
・高句麗国の越族大彦命 中国東北地方(北満州)の夫余族が南下して、後の高句麗と百済の両国を建てる。三国史記に¬朱蒙(高句麗国王の祖)、卒本に至 り、★越郡の女を娶る★」と見ゆ。卒本(桓仁)地方は鴨緑江支流の佟佳流域の地で高句麗国の内なり。此の地は古代越族の居住地である。当地方出身のオオヒ コは高句麗国王によって日本に派遣されたと云う。
『占部家系図総覧−占部家系傳』より
桓武天皇よりの系図 (国香の子孫の方が清盛につながりますよね。)
★桓武天皇—良文(村岡五郎)—常有(占部太祖なり)占部兼安
★卜部系図
臼井常有
↓
常有(占部太祖なり)占部兼安。
又時代がさがってからだが 『吉田』姓との通婚がある。このころはもう一般人になっているのかも知れないが・・・
『HOME−占部家系傳』より
裏伊勢と呼ばれる宗像大社がここにある。占部は宗像大社の神官であり、宗像大社の大宮司宗像家の家臣であった。浦辺・浦部姓は多いが、占部姓は珍しい。今では全国に広がっているが、その殆どがこの地域の出である。
『臼井氏−占部家系傅』『大城長者昔語り』より
朝倉市佐田の山奥に今も数件の占部氏が住んでおられる。
実はここに、占部六郎常有から30代余り続いている家がある。宗像家の最後を見届けた占部貞保の次男末保の子孫である。以下はここの一族の方々からいただいた資料にもとづいている。
・ ・・・常有は宗像に潜入した後は姓を占部・・・