武内宿禰が昇天したとされる沓塚にて |
なぜ、この地に卓辰王、建族、蘇我氏の祖である、武内宿禰が主な祭神として祀られているのか
そして…この地にて彼はアセンションした…とあります。
いろいろと深く感じられる神社であるのが、織幡八幡です。宗像大社に次ぐ、大きな神社だと聞いています。
私はここに来るのをとても楽しみにしていました!
まずは神社の由緒などから…http://uzumasa-1962.at.webry.info/201105/article_11.htmlより
また豊前のあやはた…との関連性について。今日、Sさんが来られて、葛原の地との関連も、深まっています、さらに明らかになるでしょう。
http://blog.goo.ne.jp/araki-sennen/e/b2e70c6032fa5f2a729a226c43ac27b8より引用
宗像、鐘崎に名神大社「織幡(おりはた)神社」がある。地元では「しきはん様」と呼び、宗像に次ぐ大社とされる。
「織幡神社」は半島に至る「海北道」の基点、鐘崎の港の突端にある佐屋形山に鎮座する。
主祭神は武内宿禰。東西に住吉大神、志賀大神が座し、天照皇大神、宗像大神、香椎大神、八幡大神、壹岐真根子臣が配祀される。神官は武内宿禰の臣、壱岐真根子臣の子孫であるという。
ここに興味深い「幡(はた)」の伝承が残る。
神功皇后の三韓征伐に際し、宗像神が「御手長」という旗竿に、武内宿禰が織った紅白二本の旗を竿につけ、旗を振って敵を翻弄し、最後に沖ノ島にその旗を立てたという。その紅白の旗がここ「織幡神社」で織られたという。
宿禰は「我死なば神霊は必ずやこの地に安ずべし。」と伝え、境内に沓を残して昇天したと伝えられ、境内に「沓塚」が残る。そして異国から「海北道」を護るため、宿禰の霊をここに祀ったという。
一見、荒唐無稽な話のようだが、この逸話は武内宿禰が渡来系の機織氏族を統括していたこと、また宿禰が宗像氏の軍勢と共に戦い、宗像神の奉祭に拘わっていることなどを示していよう。
玄界灘に突き出た鐘崎は、古く海上交通の要衝である。鐘崎は響灘と玄界灘を分ける岬。速い潮流は航海の難所でもある。
沖ノ島が沖に浮かび、その先に対馬、韓半島。岬の突端の佐屋形山に鎮座する神社は、殊に「ちはやぶる岬で崇めらる神の社(やしろ)」。
この幡(はた)の伝承は九州北部沿岸に多く残る。
鐘崎の東、遠賀郡岡垣の波津(はつ)海岸が、神功皇后が海岸に旗を立てたので「旗の浦」という。
対馬国一宮「海神(わたつみ)神社」は古く、八幡本宮と称し、皇后が三韓征伐からの帰途、新羅を鎮めた証として「旗八流」を納めたところ。
そして皇后は筑紫の「宇瀰」で譽田天皇の寝屋の周りに「旗八流」を立てる。
旗を織ったということは、機織りの技術集団が存在したということ。
津屋崎の奴山に4人の織媛を祀る「縫殿(ぬいどの)神社」が在る。呉の国から兄媛、弟媛、呉織、穴織の4人の織媛が、織物の技術を伝える為にこの地に招かれた。兄媛はこの地に残り、宗像で呉の織物を伝えたという。
そして兄媛(えひめ)は皇后が新羅を征し給う折、船の帆を縫ったとの伝承が残る。
幡の伝承で、幡を振り「旗指」を掌った神が多礼の「指來(さしたり)明神」。
宗像大社の対岸、多礼の「指來神社」(孔大寺神社)の縁起では「指來明神」は皇后が異国に進攻したときに御旗を司った。そして、紅白二本の旗をつけた旗竿が「御手長」。
壱岐に「天手長男(あまのたながお)神社」がある。名神大、壱岐国一宮に比定されている。この宮は「御手長」に由来するという。社伝によれば壹岐真根子臣の子孫が「御手長」を祀るという。
祭神が天忍穂耳尊、天手力男命、天鈿女命。天手力男命が「御手長」に重なる。天手力男命は山の祖霊とも、異界の神ともされる。
「足長手長」は山の怪。足長人と手長人。江戸期の「和漢三才図会」などに載る。その名の通り、脚と手が異常に長いとされる。諏訪に「手長神社」「足長神社」がある。祭神が手長彦神、足長彦神。諏訪大社の建御名方神に随従した「先住の神」であるとも。
神武天皇に抵抗した「長髄彦」が長い脛の神格化。足長神。
「御手長」の背景に山岳の先住氏族の姿が見えるのは、何を意味するのであろう。
そして前述の多礼の「指來神社」の御手長を掌る「指來明神」が、阿蘇の神「阿蘇津彦」であるという。
由緒では、「指來明神は産土神なり。神功皇后の異国御征伐の折、御旗を司り給ひし神なり、故に旗指大明神と云しを今は訛り指來明神と云ひ、阿蘇津彦命を祀ると云へり。」とある。
「幡」を司る神が何故か唐突に阿蘇の神「阿蘇津彦」であるという。
宗像三神の祖神は、神直日神、大直日神、八十枉津日神の三神であるとも。この三神は穢れを祓う祓戸(はらいど)神、警固大神ともいう。織旗神社にも「大直日神」が祀られてる。
この祓戸神は「瀬織津比売」と同神であるという。そして瀬織津比売は水神、龍神、幡織神などの性格をも併せ持つ。瀬織津比売は筑前で「蒲池媛」や「與止日女」などの比売神と習合していた。
また宗像神の湍津比売(たぎつひめ)の神名の「たぎつ」が「滾つ」、水が激しく流れるさまで、天の安河の早瀬のこと。瀬織津比売に通じるという。
熊野では海民の「山アテ」が那智の滝、白幡。神武天皇は海上から「白幡」を見た。瀬織津姫の名は「瀬を織り」という白い爆布。
「白幡」は瀬織津比売を表す。御旗を掌った「指來明神」は瀬織津比売か。この旗は阿蘇の「蒲池媛」の潮満珠、潮干珠の霊力と合力、三韓征伐を成功に導いた。
津屋崎に鎮座する波涛神、「波折(なみおり)神社」の祭神が瀬織津比売。この「波折」も「波織」であろう。
日本書紀、景行紀には天皇が周芳の娑麼に来た時、神夏磯姫が「素幡(しらはた)を舟の軸先にたて参向。」天皇を出迎えた。
筑後、大川の「風浪宮」の縁起では、神功皇后が新羅よりの帰途、海難に遭う。皇后が海神に祈願したところ「白鷺」が現れて海が鎮まる。皇后は武内宿禰に命じ、白鷺の止る所に阿曇連磯良丸を斎主として海神、少童命を祀ったのが風浪宮であるという。
白鷺も白旗と同義。水先案内となる。
「白旗を揚げる。」とは今では降伏するという意味となっているが、古代中国では白い布の幡は天子の印であった。
そして秦氏が白旗を神紋とする。白は秦氏にとっての象徴。
筑前には新羅よりの渡来人の痕跡が濃く残る。糸島辺りに密集する「白木神社」群と「白木」の地名。白木の地名は新羅に由来するという。これらの地域では必ずと言ってよいほど半島からの渡来伝承が残り、半島系の遺物が出土する。
「白」の神が筑前にいた。「白日別神」である。「筑紫神社」は筑紫の国魂を祀る式内名神大社の一。祭神は白日別神、五十猛命。
五十猛命は素戔嗚尊の子。素戔嗚尊とともに天降った半島の曽尸茂梨より埴土船で渡来した蚩尤の一族。後に紀伊に祀られ、木国の大屋毘古神と同一神とされる。
「白」は新羅に拘わる。新羅の民は筑紫に渡り、この地を「白日別」と呼んだのであろうか。
そして幡(はた)が「秦」に通じる。
秦氏の「はた」という読みについては、秦氏は「秦」の王族が半島経由で渡来したという説。機織(はたおり)に関係するという説のほか、朝鮮語の海「パダ」や、新羅の「波旦」の地名由来という説もある。
満州の「八旗」の制は北方、女眞族の組織。始皇帝の「秦」は北方の遊牧民であったという。また「八幡」は諸葛孔明の「四頭八尾の八陣図戦法」の武勲を象徴する旗であるとも。
韓半島には旗を立てて神を祀る習わしがあった。蘇塗の祭りは「竿や木柱を神木に見立て、鳥の羽、白紙、布を結びつけて神とし、民はこれをとりまいて歌い踊る。」もの。
鳥形を竿の上に立て、邑の境で邪気を防ぐ「ソッテ信仰」もこれから派生したという。そしてそこには託宣を告げるシャーマンの存在がある。
これらの「幡」の信仰を秦氏は齎した。
そして津屋崎、宗像に残る幡(はた)の社名、地名が豊前への連鎖をみせる。
周防灘に面した豊前、築城の海浜部に「幡」地名と神社群。
築城の赤幡に「赤幡八幡神社」がある。そして「和名抄」豊前国築城条によると、同じく築城の越路、広幡郷に「広幡社」、築城の湊、綾幡郷に「綾幡社」の所在が記されている。
「綾幡社」はのちに「矢幡八幡神社」、そして「金富神社」と名を変える。この社を宇佐八幡宮の元宮とする説がある。宇佐八幡宮の社伝では、欽明天皇32年に「広幡八幡麻呂」と称して応神天皇の神霊が現れている。
「幡」を携えた秦氏は九州北部沿岸から、香春を経て豊前、宇佐に進出、さらに宇佐を拠点として畿内に進出、全国に広がっていく。
(了)
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この地と先ほどの勝浦の地では、またまた雰囲気ががらり…と違います。
ゆっくり確かめるように神社のひとつひとつの史跡を感じます。海の風、鳶が数羽、神社上空を旋回しています。
鳴き声が海への郷愁をかき立てます。海から引き上げられたという巨石を触っている仲間がいます。それぞれの感じ方が興味深いです…
Mさんが言うには、樹がいびつな形になってる…海風のえいきょうでしょうね。う〜ん味わい方が深いな(笑)
ゆっくり石段を踏みしめて、海の社へ。海神王の軌跡が感じられるような…
宗像の宗の字は…ソなんだ…とあらためて実感。藤原さんの母方は浦宗性なので、宗氏と関係あるのでしょうか。
蘇我の倉、宗の倉。須賀…これまできづかなかったソです。宗は胸でもあるんですね…胸形です。
この鐘崎は…壱岐や対馬というシャーマニックセンターに大変近い場所です。
この地にいるだけで、自分自身の巫女的な意識が活性するように思います。
望郷の念というか…故郷の記憶がどんどん蘇るような。
やはり沓塚なる場所に自然にひかれます。すぐ下は海岸です。ザザーンと波の音が静かに聞こえて…
この場所にて思い切り、今日の統合です。ここに新しい光で到達できたことがすべて…
今日、繋いできた道も、そしてこれまで繋いできた道も…
この地の人々にとって武内宿禰とはどういう存在なんだろう…
壱岐真根子はなぜ、身代わりになったのだろう…いろいろと謎の多い、武内宿禰ですが、彼がクルタシロス王の子で、
居叱弥王金官伽倻第4代国王としたら…wilpedikiaより
居叱弥王
金官伽倻
第4代国王
王朝 金官伽倻
在位期間291年 - 346年
姓・諱 金
字 今勿
廟号 徳王
生年 不詳
没年 346年7月7日
父 麻品王
母 好仇
王 后阿志
居叱弥王
各種表記
ハングル:거질미왕
漢字:居叱彌王
片仮名:
現地語読み ゴジルミワン
平仮名:
日本語読み きょしつびおう
いろいろと思いがよぎります…
磁場調整後、仲間のひとりが、トランスしました…
大きく古いものを吐き出しながら、必死に伝えます…
この地における彼女の終わっていない戦いの魂が悲しみと憤り…古い魂の叫びを
発している。仲間の愛で包み込みます。
腕には抵抗の力…
こんなとき、出来ることはだたゆだねるよう導き、言い聞かせること。
孤独に、守り抜いていった男性の勇士でした。
そして、もうひとりの仲間の痛む足に光をあてて、ハートチャクラに光を注入するイメージで。
彼女もまた…ひとり静かに背負っている…
仲間にその重荷を分つよう、魂に言い聞かせる…あなたはひとりではないよ…と。
そしてもう戦いは終わったことを魂の一部が悟ることは、とても重要な事なのです。
静かな波の音を聞きながら、遠のいてゆく記憶…そして今に目覚める意識
私の心も彼女たちによって、ますます清められ、鎮められるのでした…
不思議な安堵感に満ちて、そして言いがたい余韻とともに、私たちはこの地を後にしました…
またすぐにここに引き戻されるとは…どこかでわかっていながら。