「ノアの方舟」とは何か |
シュメール人の王族であるナーガ族は、このときいち早く舟に乗ってスンダ大陸を脱出した。それがユダヤ人の「ノアの方舟」の話になったのであろう。王族でなかったシュメール人、ドラヴィダ人、苗族、港川人らのなかにも、舟で逃れた人たちがいた。このとき、彼らが利用したのはプロト.フェニキア人(エブス人)の舟(または船)であり、彼らが先史文明圏の支配下にあった各地の植民地に避難することにより、スンダ大陸の文明のかけらを世界各地に残すことになったのである。
スンダ大陸(英人.チャーチワードは"ムー大陸〃に比定している)が沈んでいくとき、フッリ人とドラヴィダ人とシュメール人とは、〃ノアの方舟"によって、かろうじて脱出したが、ワジャック人は残留してスンダ亜大陸とともに沈んでいった。
バリー島にいたヴェソイド人の祖先の黒人(バリー人)は、スンダ亜大陸を脱出し、その後約一万年前、ベトナム(南越)でヴェソイド人を生んだ。このヴェソイド人は、約八千年前にインドネシアのセレベス、スマトラ、ジャワに渡っている。現在、バリー島やジャワ島は世界の観光地として賑わっているが、筆者が英人チャーチワードドの主張する「ムー大陸」が実はスンダ亜大陸のことだと気づいたのも、てバリー島の遺跡を探訪したことがきっかけであった。
◎「鹿島史観」
ボルネオ島にいたメラネシア人の祖先の黒人たちは、スンダ亜大陸の沈下と運命をともにし、絶滅した。
ボルネオ島にいた黒人(ボルネオ人)の中に、スンダ亜大陸沈下の際、太平洋上の島々に逃れた数少ない人々がいたが、その中から、約一万年前にメラネシア人が生まれた。しかし、ボルネオ人自身はメラネシア人の中に吸収されてしまい、消滅した。
一万二千年前、シュメール人(バンチェン文化人)とネグリト系のセスン族の混血によって、苗族(A型)が生まれた。セスン族は、バリー、ジャワ、スマトラ、タイ、ビルマ、ベトナムなどにいたので、その後、文明人であるシュメール人指導のもとに、苗族のすぐれた「バンチェン文化」が東アジア全域へと広まることになった。
◎人類の救世主・バンチェン人
突然、海没し始めた「スンダ亜大陸」を脱出したシュメール人らが、
メコン河の中・下流域に逃れてバンチェン人(のちのバンチェン王国人)となり、ドラヴィダ人らを奴隷にして、新文化の「バンチェン文明」を再建していった。【バンチェン文化】一九六六年から一九六七年にかけて、タイ国芸術局とアメリカのペンシルベニア大学が共同で、タイ北東部、ウドンタニ県のバンチェン村を調査し、低い台地上の集落内に墓地遺跡を発見した。熱ルミネッセンス法による年代測定の結果、五千年から七千年前の遺跡らしいということで、世界的に大変な注目を集めた。
先学者.鹿島舜は、「そのバンチェン遺跡を築いたバンチェン文化こそが、アジアとオリエントを結ぶ南海シルクロードの踊り場(交易中心地)であった。さらにそれらは、バンチェン王国の新しい農耕文化、およびヒマラヤ山麓系の自然銅採集による金石器文化(新石器末期の文化)と、ニューギニア付近からアラフラ海に至る南海(大洪水で沈下した、かつてのサフル亜大陸-海域)の海人文化とが混合したものであり、一万二千年以後の日本列島の縄文土器、弥生土器に影響を与えたのはもちろんのこと、〃のちに分化する世界中の文化の原型"であった」と主張した。従来の学者たちは、「先史時代の東南アジアは、文化的発展における後進地である」と既定しているが、鹿島はそれをひっくり返し、ギリシャの哲学者・プラトンの記した「アトランティスからやってきた軍隊」とは、実はバンチェン人のことであり、一夜にして沈んだというアトランティス大陸は、実はアジアの南海にあったと主張した。また、世界文明の魁のようにいわれている「エジプト古王朝人」も、実はバンチェン人のシュメール人王家ナーガ(蛇トーテム)族の王族であると主張している(『バンチェン/倭人のルーツ』新国民社)。このとき以後(約七千年前)、新モンゴロイドのユダヤ人はシュメール人、フェニキア人、ヒッタイト人とともに「バンチェン文化」の移植者マヤ人となり、オリエントや南米大陸などの世界各地にシュメール文明を伝えていったのである。その後、約六千六百年前、ワジャック人と、約一万年前に生まれたメラネシア人との混血によって、ポリネシア人が生まれた。ちなみに、ミクロネシア人は、古モンゴロイドのヴェソイドから生まれた新モンゴロイドである。
◎大洪水後、沖縄を経て鹿児島へ上陸した
「港川人」
「大洪水」後、フィリピン沖から始まる黒潮の流れが変化し、それまで日本列島から少し離れて東北上していたのが、鹿児島南端に接近して本土寄りに流れるようになり、その支流が枝分かれして九州西方を「対馬海流」が北上するようになった。そのため、港川人らが沖縄を経由して大隈半島(桜島周辺)へ上陸できたのである。
ちなみに、北上途中の沖純に残されている港川人(途中下船して葬られた)の人骨を調べてみると、彼らは身長百五十五センチメートルほどの新モンゴロイドであり、丸木舟(カヌー)に乗って航海してきたことが判った。「大洪水」のとき、港川人に同行してアエタ族(身長百五十センチ以下の低身長族)も渡来した。彼らも桜島周辺に上陸したが、一万千年前以後になると、漸次移動を始め、薩摩、日向、熊本などにコロニーをつくるようになった。
港川人らの「上野原・縄文文明」
約一万千年前頃、港川人らは鹿児島県鹿屋市上野地区の「上野原遺跡」(先に知られていた弥生遺跡の下から新たに発見された縄文遺跡)の竪穴式住居に定住し、根菜農耕を行い、併せて狩猟や漁携などによって生活するようになっていた。約一万年前頃になると、男性は狩猟・漁携・造船などを行ったが、女性はヒエ.アワ.キビなどの雑穀栽培を行い、人々は縄目文様の土器文化によって生活を営むようになった。すなわち、縄文文明と呼ばれる時代の始まりである。
〔上野原の縄文遺跡〕この住居跡からは各種の磨製石斧が多く発見されており、彼らが丸木舟(カヌー)製造の技術や遠洋航海術を持っていたことがわかる。
続きはまた…