参考資料より 姫氏倭国で検索 |
1、法興の上宮法皇
しかし、古代九州に存在したのは「姫氏・倭國」だけではありませんでした。「彦島・天( あま)」にル-ツを持つ. “天孫”の子孫神武を始祖とする天皇家もまた北九州に実在しま した。神武は九州を支配していた「姫氏倭國」. との局地戦に勝利して、「畝傍の山」の 近くに ...
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2、日本書紀論
である。その為に妻の実家が存在した彦島吉備に戻り船をつくり兵を募り応募した海部 一族を引き連れて企救. 半島を南下して小倉南区に侵入したのであった。 其処は古代 九州文明を築いた姫氏が統治していた。姫氏とは中国の古代王朝呉の王家一族である 。
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3、女王・卑弥呼
姫氏系図」では、「熊(鹿文)」から「厚(鹿文)」まで約250年の空白があります。「姫氏 系図」には ... しかし、「姫氏系図・熊王」から「姫氏系図・厚王」までの間、中国王朝の 史書には「倭. 国」「倭王」が ... 何故なら、「彦島」には「伊予」といわれ、また「豊」とも いわれ ...
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4、天武は北九州天皇家の王
神武の功績. 真実の神武東征は関西ではない。神武は古代吉備が存在した彦島を出発 して企救半島吉志に侵攻しまし. た。上陸の際長髓彦の急襲を受けたためそれ以上戦わ ず、兵を引き、小倉南区に侵入してその地を統治して. いた姫氏倭國の長官と戦いまし ...
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法興の上宮法皇
九州「姫氏倭國」
九州の古代文明は古代中国呉出身の王「姫氏」によって開かれました。彼らが造った國が「倭(姫)國」です。
古来中国王朝に臣従して、中国史書に「漢委奴國」「邪馬台(壱)國」「倭五王」と紹介されてきた「倭國」です。
九州各地に存在する「装飾古墳」はこの王朝歴代の墳墓です。そこに描かれている「帆船」は、遙か始祖が黒 潮に乗ってはるばる九州にまでやって来た航海を記録しています。
九州を本拠に東は兵庫県にまで分国を築いた「倭王朝」は6世紀終焉を迎えました。その戦いが、「筑紫君 磐井の乱」と呼ばれる東西の決戦でした。この戦いによって、伝統ある「姫氏倭國」の王「磐井」は山の中に姿を 消し、「姫氏倭國」は衰退していきます。私たちは、古代九州「姫氏倭國」については、「日本書紀」「風土記」に おいてその実在を確かめることができます。
しかし、今でこそ容易にその実存認識を持ちえますが、「倭」が「神武天皇家」ではなく、九州に実在した「九 州王朝」だと初めて解析したのは古田武彦氏です。古代史解明に於ける偉大な功績です。
北九州「神武倭國」
しかし、古代九州に存在したのは「姫氏・倭國」だけではありませんでした。「彦島・天(あま)」にル-ツを持つ “天孫”の子孫神武を始祖とする天皇家もまた北九州に実在しました。神武は九州を支配していた「姫氏倭國」 との局地戦に勝利して、「畝傍の山」の近くに建国しました。「畝傍の山」とは香春岳を指します。まさに畑の畝と 見えます。ここに神武倭(やまと)國とでも言うべき古代国家が北九州に誕生しました。畝傍山は神武倭國の象徴的な山でした。多くの歌に歌われました。
倭建が「ひさかたの天の香具山」と歌った「天の香具山」も香春岳です。倭建の名が表す如く、「倭」は本来古代九州の王者「姫氏・倭國」を表し、倭建とは「倭國の建(勇者)」と云う意味です。「姫氏倭國王・厚」から贈られたこの尊号を倭建は終生誇りとして名乗ったのです。その古代神武倭國の口伝歴史書が古事記です。
「天」とは彦島に存在した古代國であった。
「天照大神・高天原」は彦島・老の山公園に存在した高地弥生集落であった。
「天孫降臨」は天一族による彦島から小倉北区への侵攻だった。
「出雲王朝」は小倉南区に栄えた天一族分流の古代王朝だった。
「因幡の白ウサギ」の物語も小倉南区・稲葉の物語だった。
「神武東征」は小倉北区から小倉南区への侵攻だった。
「神武」は彦島・吉備で準備をして繁栄していた東の國(小倉南区)に侵攻した。
「神武」は「畝傍の山(香春岳)」の東南に都を定めた。
「景行」は田川市白鳥町から出陣した。
「倭建」の妻が入水したのは「流れ海」、つまり関門海峡だった。
「仲哀・穴門の豊浦宮」は彦島に存在した。彦島は古代豊國が存在した。
「応神・吉野の國主」とは小倉南区吉田に存在した古代国の主だった。
「雄略・吉野の宮」は小倉南区に存在した。
「仁徳・難波の高津宮」は小倉北区に存在した。
元明天皇が編纂を命じた「風土記」を見てみましょう。
豊後國風土記・日田の郡・鏡坂昔者、向(まきむく)の日代の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇、此の坂の上に登りて、國形を御覧(みをなお)して即ち勅(の)りたまひしく、「此の國の形は、鏡の面に似たるかも」とのりたまひき。 因りて鏡坂といふ、斯れ其の縁(ことのもと)なり。
「景行天皇」が「日田・鏡坂」の現地に立っています。
肥前國風土記
筑紫の國御井の郡の高羅(久留米市高良山の麓)の行宮に御(いま)して、國内を遊覧(なそなは)す に、霧、基肄の山を覆へりき。天皇、勅りたまひしく、「彼の國は、霧の國と謂ふべし」とのりまひき。 ここにも「景行天皇」が現地に立ちます。
筑前國・怡土郡
筑前の國に風土記に曰はく、怡土の郡。昔者、穴戸の豊浦の宮に御宇しましし足仲彦の天皇、球磨曾
唹を討たむとして筑紫に幸しし時、怡土の縣主等が祖、五十跡手、天皇幸しぬと聞きて、五百枝の賢木 を抜取りて船の舳艣に立て、上枝に八尺瓊を挂け、中枝に白銅鏡を挂け、下枝に十握剣を挂けて、穴門の引嶋に参迎へて献りき「穴戸」とは彦島小戸です。彦島小戸に存在した「豊浦の宮」は仲哀天皇の宮です。この宮から「筑紫」に行 ったという記録です。この「筑紫」は國生みの筑紫嶋・筑紫國(企救半島)ではなく福岡県前原市です。なぜならこの記事は筑前國風土記の怡土の郡の記事だからです。
仲哀天皇は、「穴戸の豊浦の宮」に住んでいました。「豊浦」の「豊」とは「伊豫二名嶋」のもう一つの名前であった「豊」です。「伊豫二名嶋」は「伊豫」と呼ばれまた「豊」とも呼ばれていました。故に「二つの名前」を持つ島と謂われていました。「伊豫」とも呼ばれ「豊」とも呼ばれた島は彦島老町でした。仲哀天皇はここに宮を構えていました。故にその宮の名前は「豊」の「浦(港)」の宮といわれていました。彦島小戸の彦島老町に存在しました。
古代天皇家の始祖神武は遙か昔中国「呉」の國から渡来して九州全域を支配下に治めていた「姫氏王朝」 の分国と戦い勝利して古代国家倭國を樹立しました。神武が対戦した相手は「梟師(たける)」と書かれていま北九州で生活してきました。彼は姫氏王朝の地方長官でした。
日本書紀は倭建・景行が倒した相手を「熊襲」と書いています。「熊」とは姫氏倭國王の栄光の称号でした。
神武が建国した倭國は北九州の中では小国でした。周りは姫氏王朝によって包囲されていました。「熊襲が叛いた」とは神武倭國から見た名分で実際は姫氏王朝は侵入してきた神武の國に絶えず侵略を試みていたのです。唐建国によって東アジア世界が激動再編されるまで北九州の一角に存在した小国家神武倭國は日本史の表舞台に登場することはなかったのです。
出雲王朝と古代天皇家の都
古事記の登場する河内と呼ばれた地域は小倉南区の河内でした。古くから栄えてきたところで縄文時代遺跡も存在します。この小倉南区は神武王朝の都でした。景行天皇成務天皇は此処に宮を構えました。万葉集に詠われた近江大津宮とはここ小倉南区長野に存在した古代天皇家の宮でした。天智も持統もこの宮で統治していました。小倉南区は天皇家歴代の宮が存在しその王墓も存在した都でした。
またここには國生み神話の神々、出雲神話の神々を祀った神社が存在します。古代天(彦島)を追放された天照御神の弟スサノオノミコトは関門海峡を渡り小倉南区に入って此の地の支配者オロチを倒しここに國を作りました。それが出雲王朝です。小倉南区は神武東征以前に栄えた出雲王朝の都でした。
古代関西に存在した国家
古事記・風土記・万葉集は古代天皇家は北九州に存在したことを断固として主張している。北九州の地理は その主張の妥当性を証明し、その史跡はその主張を裏付ける。日本書紀は手を尽くして神武奈良東征を主張するがそれは虚構である。日本書紀が書き留めた神武自身の言葉がその虚構を粉砕する。神武が東征の激戦地「国見の丘(城山)」から「蜻蛉のとなめ」と見たのは竹馬川の流れだった。神武が戦いを終えて都を開く時見た「畝傍の山」はまさしく畝のように三つの山が連なる香春岳だった。神武は自分が都を開いたのは奈良橿原ではなく北九州香春の町だったことをきっぱりと私たちに語りかける。しかし神武が語る意味はそれだけでに止まらない。
“我々古代天皇家は北九州に存在した。”
“古代関西には我々の見知らぬ別の王朝が存在していた。日本書紀はその王朝を封印している。”
神武が伝える言葉の真意はここにあります。私たちは神武の教えに従って新しい探求の旅に出かけましょう。
古代奈良・古代大阪南河内に巨大な古墳を残したのはいかなる国家だったか。その国王はいかなる人物だったのか。まず訪ねるべきは法隆寺です。この寺に封印された古代国家の扉を開ける仏が私たちの来訪を待ち望んでいます。