参考資料 宇佐八幡は製鉄所 |
宇佐八幡は製鉄所でした。 「日本人のルーツ(558)」
日本最古の王朝、【天の王朝】とは、約3500年前、フェニキア人、エブス人、ヒッタイト人らが
タルシシ船で渡来し国東半島へ製鉄基地を築いて『殷文化圏』に鉄製品を供給し始めました。
続いて3100年前、国東半島重藤の製鉄基地が発展して殷の東表国となり彼らフェニキア人らは、宇佐八幡を都とし、タルシシ船の船長エビス王家のクルタシロス1世を初代王として東表国(豊日国)を建てました。これが、わたしたちの国の第一王朝の始まりです。
日本書紀上、日本初の天皇とされる神武天皇の前に既に1000年間も続いていた王朝でした。
この時、先住民である港川人・オロッコ人・ツングース(アイヌ人)・アエタ族らの縄文人を不必要に殺さず、できるだけ生かして新文化の建設に使役しました。
彼らがエビスさん、七福神と人々に親しまれた所以です。
九州国東半島に渡来したエブス人たちの海人は、どこから来たのでしょう?
先ず彼らはレバノンの沿岸都市アルワドからインド中部のロータルに移住しデリーを経てマガダ近くまで移動しました。そしてインド16ヶ国時代には、アヴァンティ国・アウドを王都とするコーサラ国・アンガ国などの太陽(日神)王朝諸国になっていました。
彼らは、後にマガダ国と戦うことになりますが、倭人のルーツは、この人々のなかにあったと思われます。アウドの人々は、阿多隼人として鹿児島に上陸しましたが、日向に入った人々(公孫氏・卑弥呼)はインドネシアのチャム人であったらしい。
ジャワ島東部のスラバヤ北方にマドウラ島があります。ここから海路北上するとボルネオ島のバンジェルマシンに至りますが、そこは古くからの倭冠の基地だったといわれています。
またマドウラ島の人々は自分の土地に愛着を持たず、島々を渡り歩く漁民、船員、商人になりました。この人々は元来インドのマルーワの移民で、エブス人やカルデア人の血をひく最古の海人族の子孫でした。やがて、【山海経】にいう【耶馬提国】が、この地につくられたことからすると、ボルネオ南部の八河地帯が【東表】の本拠であったと考えられ、この後、北九州の松浦郡、すなわち【魏志】倭人伝の末盧国に移動してきたものと考えられます。
そうして、九州の地にできあがった東表国は、後に駕洛国になって朝鮮半島にも進出し金官加羅とも呼ばれました。新羅国は、この金官加羅から独立した分派です。
【東日流外三郡誌】に、「荒吐族がアソベ族とツボケ族を支配した」と記されていますがこれは、駕洛国または金官加羅の支配が奥州まで延びたためであり、荒吐族とは駕洛国の金氏と狗奴国(沖縄)の朴氏の子孫たちのことでありました。
奈良時代以前には、富士山麓一帯までが既に秦王国(古代ユダヤ人の国)の勢力圏で、そのなかには手工業の徒が多く、このカースト制を維持する秦氏の国を【秦王国】といいましたが、【晋書】によれば、金官加羅(倭大王)は、秦王国をも間接的に支配していたらしい。 奈良県の飛鳥時代の不思議な石造物や文化財、石人男女像、猿石、二面石、亀石、益田の岩船、酒船石、須弥山石など大和朝廷の史跡に指定していますが、これらは大和朝廷のものではなく、すべてイ妥国(秦王国・古代日本ユダヤ王朝)の文化遺産でした。
紀元前一世紀、奈良盆地にユダヤ人のコロニーがつくられ、やがて三世紀に秦王国となりました。
この【秦王国】は、中国の始皇帝の秦がBC206年に滅びた後、その子孫たちが海を渡って日本へやって来て築いた国です。始皇帝は実は古代ユダヤ民族のシメオン族の血を汲んで、バクトリア知事であったディオドトスというのがその正体で彼は碧眼で鷲鼻をもつ男性でした。その西域人の流れを汲んだ人々が日本へ渡来し、シメオン族という古代ユダヤ人の一部族、その族長が国史でいう大国主命で、彼が九州に上陸して造ったのが委奴国というクニでした。この委奴国の前に北九州の地にいたのが、ガド族の猿田彦命を中心としたグループの伊勢国でした。その伊勢国を攻め滅ぼして樹立したのが委奴国でした。
委奴国にいたユダヤ人(シメオン族・レビ族・ルペン族)および苗族らの人々は急遽、博多から乗船して瀬戸内海を東遷しましたが、その途中、一行のうち500人は周芳国・徳山湾(旧近江ノ海)に滞留します。そして別行動の本隊、約300人は摂津(大阪湾)に上陸し、先住していたガド族との間で激しい戦いとなりました。一時は、ガド族を撃退しており、このことは記紀の神武東征神話にも【ヤタ烏の物語】として投影されています。この後、豊ノ国(大分県)から宇佐八幡宮の神霊を奉じ亡命してきた東表国の人々も合流して【遠石八幡宮】・・・宇佐八幡の分霊を祀る石清水八幡宮・・・を建てました。最後にはシメオン族が勝利して奈良に入り、秦氏の一行に参入して【秦王国】が建てられました。ところで、熊野山中には100キロメートルにも及ぶ石垣が存在しますが、これはガド族がシメオン族との戦いに備えて築いたものです。やがて秦王国の人々と東表国の人々は相協力して古周芳国および古周芳の石上神社(楊井水道)の領域を占領し、秦王国の分国【周芳国】を作りました。この時、古周芳の元宮・周芳神社(柳井市日積・諏訪神社)の【たたえ祭り】神事が猿田彦の亡命と共に、縄文人(オロッコ人)や苗族たちの故郷・信濃の諏訪神社へと伝承されています。それが今日まで伝わる長野県諏訪神社の【たたえ祭り】のルーツになります。そのオロッコは自称ウェッタまたはウィッタといい、半地下の家屋に住んで独自の文化を有していましたが、このウェッタが穢多(エタ)の語源となり、後に別所、院地などに住んで文化を有していましたが、このウェッタが穢多(エタ)の語源となり、後に別所、院地などに住んで結束しましたが道鏡、文鏡(光仁)らの百済系王朝ができると、戦いに負けた新羅人のグループもウェッタの地に流れ込み、後にドロップ・アウトした者も受け容れられて住民構成が変化しました。
話は少し戻って、532年に金官加羅が分家の新羅と百済の挟み撃ちになって敗戦し新羅に投降すると【倭大王】の主権は邪馬壱国または安羅国の王(倭国王)に移りました。
しかし、【秦王国】の人々は、依然畿内に於いて【移民社会】を維持するという二重社会の独自性を守り続け、663年、白村江の戦いの時に新羅に味方しました。白村江の戦後九州(大宰府)から畿内(大和)に進駐した新羅の占領軍は【秦王国】を中心として倭国と合体させ、【秦王国】は手工業者を【新羅奈良朝廷】は農漁民と農奴をそれぞれ支配するという【二重体制】を続けました。
大分県・宇佐八幡宮を根本社として、八幡神を祀る神社は全国に25000を数えます。
大仏建立で名を上げた鍛冶と託宣の神をそこまで広めていったのは後の武士階級でした。
八幡神とは一つの身に八つの頭を持ち訪れる人を殺す荒ぶる神だったといいます。
8世紀の初め南九州の隼人がしばしば反乱を起こしたため、大和政権の命によって北九州から鎮圧軍が派遣され、この時、象徴となったのが八幡神、ヤハタという名は八流の幡・・・軍旗で多くの軍勢を意味するといいます。
八幡神の名が全国に広まっていくのは、8世紀半ば、奈良に巨大な銅の仏像が造られる時でした。
金属精練に長けた秦氏系の職工が国家的事業に結集したのは八幡神の名の下に集められたパワーでした。式典には宇佐の女性神官(シャーマン)が盛大に招かれ大仏を拝し、これは八幡神が日本の神々を代表して仏を受け容れる儀礼でした。