引用 小倉南区 蜷田 淡海国の地名…ほか |
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小倉南区 蜷田 淡海国
2011/11/30 20:12
バス停 目倉 メグラ 東大野八幡神社の西
そのまた昔、雄略天皇病いのとき、豊国の物部兄奇という祈禱師を京都に呼び、祈禱させたところ病気平癒、天皇は兄奇に巫部(かんなぎべ) を賜姓、また兄奇を連れて上京した物部真掠(まくら) に大連(おおむらじ) の姓を賜わり、大野郷を無税の下賜田とした。
真掠がここに住んでいたから真掠谷、転音して盲谷になり、盲人がこの谷に迷いこんで死んだという口碑のもとになった。
『 おもしろ地名 北九州事典 』 文理閣 1997年 P150
小倉南区 高津尾 〜 石原町 には雄略天皇と物部氏の伝説がある。
石田は 万葉集の石田
石田は「磯」 の転訛で、縄文時代は曽根と小倉は水道でつながっていた。
往古は守恒あたりまで海だった。
石田小野 万葉集1730
石田社
1731
2856
3236
石田社を過ぎたら淡海なので、淡海国は蜷田も考えられる。
蜷田は「湊」 が転じたものという。
高丘連こと楽浪河内は高坊の人か。
田原は平(たいら) の転訛という。 比良か。
万葉集の常山は守恒(もりつね)
日本書紀 神功皇后 摂政元年2月
岩波文庫 日本書紀(二) P160
山背根子が女 葉山媛 ⇒ 葉山町
陸奥の小田 金山
2011/11/30 08:23
万葉集、続日本紀の日本国は関西の奈良県・大阪府でなく、関門海峡を挟んで 下関市・長門市 と 北九州市・行橋市。
奈良時代の都は下関や小倉にあった。
東北は遠過ぎる。
和名抄で豊後の球珠郡に小田郷がある。
比定地不詳ながら通説では玖珠町の小田とみられている。
山国町には金鉱があるので、小田郷は山国町だろう。
天湯河板挙
2011/11/30 03:16
垂仁天皇 23年10月8日 天湯河板挙
湯川の地名は
① 岡垣町
② 小倉南区
にある。
万葉集 高市連黒人
①考 川崎町 安真木の黒木村
②考 小倉北区の高坊と黒住町・黒原
水町は門司の大里と小倉方面に道が交わり、十文字原と呼ばれた。
⇒ 天の八衢
重留遺跡 高天原の遺跡か
弥生時代中・後期と古墳時代中期を主体とする丘陵上の集落跡。
県指定史跡。 平成2年(1990)から同9年にかけて5回発掘調査。
弥生時代の遺構は、竪穴住居・貯蔵穴・土坑・掘立柱建物・小児用甕棺墓・土壙墓などで、うち後期中期の第2地点1号竪穴住居は大型の長方形(6×8メートル)で、後期の住居のなかでは最も高所にある。
内部の南壁中央貯蔵穴よりやや東の穴で発見された広型銅矛(一本)は穴の縦軸方向に合せて鋒を東にし、刃を斜め45度に傾け、じかに埋められていた。
銅矛では初めての保管例で、この穴は7回掘直され祭祀の度に掘出されたとみられ、銅矛の首長層管理を証明する。
同住居出土品(一括)は県指定文化財。
この住居の約50メートルの地点にほぼ長方形の大型で内側が深くなる二段掘りの柱穴をもつ同時期の掘立柱建物(第5地点1号)がある。
現在は一間×一間 (梁間4・1メートル×桁行2・7メートル) であるが、柱穴の方向や、柱の径(0・3メートル) からみて、さらに一 − 二間は延び、銅矛を埋納した住居と有機的な関連をもつものであろう。
ほかに古墳時代中期の鍛冶工房が一基独立してある。
平凡社 日本歴史地名大系 41 福岡県の地名 P1238中 より
重留遺跡から出土した矛は
①考 古事記の天の沼矛 — 地名の沼あり !!!!
②考 大国主神の広矛 岩波文庫 日本書紀(一) P120
御祖神社 みおやじんじゃ
妙見山北西麓に鎮座
祭神は造化三神 天御中主尊 高皇産霊神 神皇産霊神
和気氏の祖先の神鐸石別命 和気清麻呂
寛政7年(1795) 小倉藩第5代藩主小笠原忠苗が山頂の妙見社に参詣したとき、土中から中国南宋産湖州鏡ほか9面を発掘。
南宋(1127〜1279年) は万葉集とは時代がちがうが、妙見山は鏡山か。
下関の四王司山は鏡山ともいわれる。
白髭神社 小倉南区蜷田若園
祭神は猿田毘古神 天児屋根命 天宇受女命 布刀玉命
高千穂に降臨した邇邇芸命に協力して天宇受女命が宮所を求め、当地の丘にしばらくとどまったという。
天の安河は
① 小倉北区の神岳川、妙見川
② 安部山の小原川
になる。
『 おもしろ地名 北九州事典 』 増補総集版 文理閣 P117
安部山は明治38年、曽根村の園芸家 安部熊之助 が安部農場を開いたのが由来。
安部山には和気清麻呂伝説にちなむ冷泉がある。
五ツ石 イツツイシ 同 P120
一生水(一升水) は和気清麻呂伝説に基づく湯川水神社境内の一生涸れないという池に因んでいる。
※ これが天の真名井か
湯川 同 P153
足立山の尾根に連なって妙見山 = 霧ヶ岳。
ここに霧がたちこめると雨になる。
※ 天之狭霧神
小倉の足立山には天石屋(天石窟) に該当する洞窟がない。
小倉から最も近い洞窟は苅田町の南原 殿川ダムの北 相円寺 の洞窟である。
神夏磯媛は天石屋の儀式で景行天皇を迎えたので、
殿川ダム北の洞窟は天石屋の可能性ありだ。
豊前 帝都考
2011/11/29 17:16
筑波山 小倉南区の竹馬(ちくま)川 二上は足立山と妙見山
平凡社の地名辞典 福岡県巻 — 日本歴史地名大系 41
P1236下 着場(つくば)
P1247上 着場の橋
P1252下 着場の湊
葛原 小字「藤原」 が2か所ある。「藤原川」 「八ヶ坂」
湯川 小字「アマツチ」 がある
黒原 「橘ヶ迫」
沼 「名郷」 「高地」(こうち) ・・・ 難波 ?
「大分り」(おおはかり)
石田 カイ本 国ヶ坪 カイ元 姫ゴ山 姫越山
蜷田 八ツマタ 向江
守恒 八旗 長洲
田原 鏡 水通シ カガツ 大浜 小浜 市
上貫 氏ノ神 イタ カグ原 乙次郎 色畑 アフミカタ 石田
鳥方 泉川 若山 大熊 八王子 高ノ間 高ノ島
中貫 揚田 八王子 樟木 石田 ソラ 閏﨑 粟ヶ谷 御坐山
府殿 高ノ島 セト 水神 山神 アフミ形 鬼塚
下貫 土部 稲葉 稲葉川 ミノブ 柏木 大木 勝円畔 辻
高ノ間 石川山 石川 柳原 柳本 天狗谷 小一郎
苅田町
雨窪 小倉山 海ノ上 恋門 八ノ上 竹ノ内
苅田村 唐ヶ﨑 鵜鷺 竹ノ内 木実原 木金 玉川 中川
日本書紀 神功皇后 摂政元年2月
岩波文庫 日本書紀(二) P160
海上五十狭茅
万葉集945 都太細江
①考 小倉南区 津田
②考 下関市 細江町
万葉集272、999 四極山
貫山(芝津山) 711メートル
大興善寺 小倉南区蒲生2丁目
南北朝期には一時規矩郡を領した厚東氏の庇護を受けたようで(「厚東氏系図」 長門国守護厚東氏の研究及び史料)、暦応3年(1340) 2月8日の木造如意輪観音坐像銘(当寺蔵)に 「大檀那駿河守物部武村・物部武直」 と記される。
平凡社 日本歴史地名大系 41 福岡県の地名 P1241下
呼野
1621年頃、金山採掘が行われ、砂金が採取されていた。
盛期には5、6千人の採掘夫がいた。
難波は紫川の河口にあり、倭は長行(おさゆき) だろう。
勝円遺跡 場所は南曽根中学
8世紀後半 〜 9世紀前半の煮熬用の甕が大量に出土し、製塩遺跡として知られた。
⇒ 万葉集の辛荷の島、志賀か
勝円遺跡は万葉集354の縄の浦か。
筑紫
蚊田 苅田町の賀田
筑紫の宇佐・宇美 苅田町の宇原 または朽網の宇土
※ 宇原神社の故地である南原 字「浮殿」 に鵜葺草葺不合命誕生の言い伝えがある。
筑紫の小島 苅田町沖の神ノ島
万葉集2674 朽網山 小倉南区 朽網
西朽網 字 「立花ノ木」
東朽網 「立花」 「樫山」 「椎ノ木尾」 「ナコサキ」 「前」
「黒﨑」 「黒崎○○」 が5か所
、
朽網は「腐み」 で、臭み
御祖神社 みおやじんじゃ
足立山
朽網
の2か所にある。
筑紫君薩夜麻
平凡社の「福岡県の地名」 は京都郡の諌山郷と推定 P1200中
安閑紀に胆狭山部
下津隈村に「イサヤマ」 という地名があったという。
曽根新田
天保7年(1836)、幕府に稲曾草村(いそくさ) として届けでた。
⇒ 伊蘇志 ?
取石神社 苅田町
祭神 伊斯許理度賣命 (作鏡連等の祖)
天兒屋命 (中臣連等の祖)
布刀玉命 (忌部首等の祖)
の三柱の神を祭る。
祭神は天孫降臨に従って天降った職業集団の長の五伴の緒と尊ばれる五柱の神のうちの三神
社名は鉱石の採取にかかわりの深い鏡作りの神 伊斯許理度賣命に由来
社はその昔、ここに金山があったといわれた時代に鎮守の社として創建されたと伝えられる。
境内の水神社には水の神 彌都波能賣神を祀る。
取石は日本武尊が誅した熊襲の名である!!!!!
景行天皇27年12月
岩波文庫 日本書紀(二) P84
肥前の松浦は苅田町の松山・松原町
吉備の穴海は下関の亀山八幡宮裏の小海峡または小瀬戸。
大原八幡神社 新津