たけのひびきに…2の、その1 |
蒲生にお住まいのたけ◎◎さんからメールが届きました。
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先日は皆さんと素晴らしい経験地場調整ができ忘れられない時となりました。
完璧にハイヤーセルフとの共同創造を始めている◎さんのマントラの素晴らしさは忘れられない響きとなりました。
言葉を越えたものをいつもみこさんや◎さん そしてハイヤーセルフからきずかせてもらえていること 幸せです。
今日の朝方 葛原のあの場所がどうしても頭から離れず
教えてほしいと思いながら眠りにつきました。
しばらく寝てたら 鎧塚 と 言う言葉を教えられ 目をさましました〜
自分なりに調べてみますが みこさん また教えて下さい
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ほお〜よろいづか…何だかピンときます。
調べてみました…ネットで調べてみると、人気パティシェのことがたくさん、へえ〜と初めて知りました。それで気になったのが、これもメッセージと思いますが、
先日のハーヤーセルフとの瞑想で藤原さんが、左目の見えない小沢さんのような人と小さい女の子…が見えるといっていたことを思い出しました。
それで一般的には鎧塚(よろいづか)とは、古墳の一種。
多くは戦死した兵士の武具、特に鎧を埋葬した塚と伝えられている。
日本各地に鎧塚と名のつく古墳が存在する。また、日本の苗字、地名である。
苗字としては富山県射水市付近で見られる。越中国鎧塚(現富山県射水市市井字鎧塚付近)発祥とされ、現在もその付近には鎧塚姓の人が多い。そうです。
へええ…とまた調べてみました。
古代苗字の鎧塚
古代苗字の鎧塚(よろいづか)の起源、鎧の塚の意味ではない。
鎧塚←余羅井津曷(よらいつか)で、羅は国、井は助詞、津は港、曷は邑、津曷は海洋民、
よって、鎧塚とは海洋民の高句麗人扶余族の集落をいう。
数少ない情報の中ですぐにピンと来たのは、上記の扶余族の集落でした、そして以下のブログ記事がでて、またピンときました。今はタイムリーに重要なメッセージが入ってくる時ですから。
とんとんとん…と進むときは、そうですっていうことが多いですよね。
長いですがすべて載せています。(ありがとうございます)
下記は、http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-2-4.htmより抜粋です!
4 物部氏は扶余人
『秀真伝(ほつまつたえ)』
筑波王朝に睨みを利かせるために、大国主神の息子である建御名方(タケミナカタ)神を諏訪に駆逐することで武功のあった建御雷之男神(武瓱槌神・建御雷神・建羽雷神)を鹿島大社の祭神とした。そして、物部氏はこの建御雷神を氏神とした。
『鹿島神宮』由緒
祭 神の武瓱槌神は香取神宮の経津主神と同体と見なされており、これから見ても藤原氏の隆盛には、往古からの物部氏の蓄積を活用した様子がわかる。鹿島神宮の 神々と河内の枚岡神社の神々とは、物部氏の拠点に鎮座していたが、藤原氏の氏神として春日大社に迎えられていることが、それを物語っている。
栄 華を誇った藤原氏の礎を築いたのは藤原不比等だが、その足がかりを作った父の中臣鎌足は、神職者の家系というだけで、出自不明とされる人物だが、物部氏に 連座して中央政権から追われた中臣の宗家に代わって中央に登場した鎌足は、蘇我氏に取り入り、鹿島神宮の祭祀権を手中にしている。
蘇我氏との政権争いに敗れ、滅亡した物部氏の莫大な資産は、半分が四天王寺の建立費用、残り半分が蘇我氏に分配されたが、その財産を築いた源泉は常陸国から得たと考えられることから、常陸は物部氏の「打出の小槌」だったのだろう。
『鹿島神宮』では、「鹿」を神の使いとして現在も境内で飼っており、鹿島神宮の神々を分奉した奈良の春日大社も大々的に鹿を飼っている。(左の写真は、春日大社の鹿)
物部氏が奉祀した鹿島神宮が、鹿を「神鹿」として扱うことから、物部氏は鹿をトーテムとする氏族だと思われる。
だとすれば、ニギハヤヒは扶余族の王族である可能性が高い。
ちなみにトー テムとは、社会の構成単位となっている親族集団が神話的な過去において神秘的・象徴的な関係で結び付けられている自然界の事物で、集団の祖先と同定される ことが多いと『広辞苑』は記しているが、端的には特定の部族内で共通の象徴として崇拝する、始祖神話に関与した動植物や岩などである。
扶余国は、燕国(前燕)の慕容(ボヨウ)氏から二度の壊滅的被害を受けている。
285年には武宣帝・慕容廆(カイ)、346年には文明帝・慕容皝(コウ)によって、国を破られ、その後は高句麗の従属国として命運をつないだが、410年に高句麗に併呑され、歴史から姿を消している。
従って、285年前後か遅くとも346年までに、その遺民が倭国に渡来したものと思われるので、その足跡を探してみよう。
① 扶余系部族連合
秦の始皇帝の大帝国が出現した紀元前3世紀、中国遼寧省から朝鮮半島の北部に扶余(フヨ)・高句麗・獩貊(ワイハク)・沃沮(ヨクソ)が登場するが、それらは扶余族を宗族とする同族系国家連合、いわば扶余系部族連合である。
扶余系部族連合は、粛慎国に帰属する穢(ワイ)族系部族の連合体で、獩族(ワイ)・貊族(ハク)・狛族(コマ)などが包含されていたものと想像するが、その連合体の王を出す主要部族が扶余族であり、扶余とはツングース語の鹿を意味する「プヨ」を漢字にあてたものと思われる。
古代中国大陸では、トーテムによって各自の帰属する部族を明示したが、扶余族は「鹿トーテム」部族だが、扶余系部族でも狛族(高句麗)のトーテムは「鳥」で、始祖神話に「南方系の卵生型」と「北方系の日光感精型」が混合していることから、北方の扶余系部族と南方の部族とが混血融合した部族だと思われる。
高句麗の始祖神話には、扶余王「金蛙」が登場するが、日本でも「淡嶋神社」では少彦名命の使い神、伊勢「二見興玉神社」では猿田彦命の使い神として、参道に蛙が鎮座しており、松本市には「蛙明神社」がある。
中国の神話では「弓の名手が女神の西王母(セイオウボ)か ら得た不老不死の仙薬を、密かに盗んで月に逃げた妻がヒキガエルにされ、月に住み続けることになった」とされ、この話から中国では「兎は雄がいなくても、 月を見るだけで子ができる」と言われ、兎は子孫をつくり永遠に生き続けることができ、ヒキガエルは前述の不老不死の仙薬を飲んだので永遠の命を持つとの伝 承がある。
熊野速玉大社は熊野三山のひとつとして「熊野新宮」とも称されるが、山上にはゴトビキ岩と呼ばれる巨岩が鎮座している。このゴトビキ岩が神々の御神体とされるが、ゴトビキとは「ヒキガエル」のことである。
また、『摂津國風土記逸文』には垂仁天皇の御代の末頃、榎津は不細工で強欲、かつ悪逆非道な「イボガエル」に支配されていたと記されている。
古代の神話では、ヘビやカエルなど様々な動物が登場するが、坑道で鉱石の採掘を担っていた人々が朝廷から「土蜘蛛」と呼ばれたように、そこになにかの象徴が秘められていることもある。
悪逆非道なイボガエルは高句麗で、蛙の天敵はヘビだが、三輪山の御神体は蛇。大和の大王家が摂津に侵攻してきた高句麗系の部族を撃退したという物語なのかもしれない。あるいは少彦名や猿田彦が高句麗系渡来人だったとも考えられる。
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ここで一回区切ります。でたでたカエル〜それからでっかいミミズ…
大きなカエルが出たんですよ〜一昨日の磁場調整で。すっごい大きなカエルをみんなで見た!少彦命さんは地底の使者でしょう。
あのとき、すかさず藤原さんが地底のメッセンジャーですっ言ってました…
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② 扶余王・依羅(イリ)
『渤海国・国書』
渤海の前身である高句麗の旧領土を回復し、扶余の伝統を継承した。わが渤海国と日本国は昔から本枝(兄弟)の関係である。
神亀四年(727年)、平城京に渤海国の使節が訪れ、大武芸王の国書を聖武天皇に奉呈した。そこには、日本と渤海国はともに扶余を同祖とする兄弟国だと述べ、高句麗と靺鞨で共立した渤海国では、日本の王統を、扶余の王族の末裔とみていたことが示されている。国書に記すだけの確たる根拠があったと思われる。
285年、前燕の慕容廆に侵攻された扶余は、国王の依慮が海に投身自殺したほどの潰滅的な打撃を受け、王族は沃沮に避難するが、翌年、再び慕容廆の侵略を受け、王子の依羅(イリ)が晋王朝(西晋)の援助で扶余国を再建するのだが、高句麗系の史書『朝鮮史』には驚くべき記事が載っている。
『朝鮮史』
依慮王、鮮卑(センピ)の為に敗れ、逃れて海に入りて還らず。子弟走りて、北沃沮を保つ。明年、子の依羅立つ。自後、慕容廆、また復(フタタ)び国人を掃掠す。依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王と為る。
この記述の信憑性はともかく、名前の「イリ」から、いり(渡来)系王朝とも呼ばれる御間城入彦 (ミマキイリヒコ)五十瓊殖尊。第10代の崇神天皇だろうと推察される。
崇神天皇を『日本書紀』では御肇国(ハツクニシラス)天皇。『古事記』では初国知らしし御真き(ミマキ)天皇とし、ともに初めて国家を立ち上げた大王だとしている。
『記紀』神話でも、大倭(やまと)王朝の初の天皇はニニギ(神武天皇)のはずなのに、なぜか「初めて国を統治した」として、神武ではなく、嵩神天皇の方を「初の天皇」として扱っている。
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区切ります。//
注)神武は崇神と同一視されることが多いようです。
たけ◎◎さんが、妙見古道で、じんむ…ときこえる…と言われていたのを覚えています。
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抜粋スタート//
扶余王の依羅が倭国に渡来したのが285年前後とすれば、『魏志倭人伝』の記事からして、邪馬台国の二代目女王『壹與』が50歳前後の頃で、おそらく神武東征の前後の時期かもしれない。アマテラス(天照大神)を女王「壹與」だと仮定すれば、彼女から十種の神宝を授かったニギハヤヒとは『扶余王の依羅』の可能性がある。
なお、依羅との関係は不明だが、依羅連(ヨサミノムラジ)という氏族がいる。
③ 依羅連(ヨサミノムラジ)
『旧天孫本紀』
物部木蓮子大連 (イタビノオオムラジ)。ニギハヤヒ(饒速日命)十二世の孫。父は布都久留、母は依羅連柴垣の娘の全姫。仁賢天皇の代に大連となり、石上神宮を奉斎し、御大君の祖の娘の里媛を妻にして、二児を生んだ。
『姓氏録』では、依羅連は百済人の素彌志夜麻美(ソミシヤマミ)の君の後裔とあり、大阪府松原市天美は依羅連が居住した依羅郷で、現在も依羅宿禰を祭神とする田坐神社、酒屋神社、阿麻美許曽神社がある。
『新撰姓氏録』では、日下部宿彌と同祖、彦坐命の後、百済人の素彌志夜麻美乃君より出ずる、また饒速日命十二世の孫の懐大連の後とある。
万葉歌人の柿本人麻呂の妻は依羅娘子(ヨサミノオトメ)といい、『万葉集』に短歌3首を載せているが、依羅娘子もやはり百済系渡来氏族の出である。
『大依羅神社』由緒
依羅氏は、丹比郡依羅郷に繁栄した百済系渡来氏族で、後に住吉区庭井に移住したことから大依羅郷と称された。依羅吾彦が祖先の建豊波豆羅別命(系譜では崇神天皇の兄弟)を祀るため、大依羅神社を建てたが、別名は『毘沙門の宮』、崇神天皇62年、ここに農業灌漑用の依羅(依網)池を造った。
ここでは崇神天皇の兄弟を依羅連の祖先だとしているが、物部氏の系譜では一族諸氏に「物部依羅連」の名があり、物部氏の系譜につながっている。
物部氏が扶余系であるなら、なぜ依羅連は百済系だとなっているだろう。
中華王朝の史書には、「百済とは扶余の別種で、仇台(キュウダイ)という者がおり、帯方郡において国を始めた。その尉仇台を始祖とする」とある。
『三国史記』百済本紀は「温祚(おんそ=高句麗の始祖の庶子)が百済を建国した」とするが、それでは百済の王姓が「扶余」であることの説明がつかない。
百済では、支配階級は扶余語を使い、庶民は馬韓語を使うというように、言語や風習が二重構造の社会だと記録されており、王族の姓は、後に漢風に一字姓の余に改姓するが、代々が扶余を名乗っていることからも、扶余族が馬韓を統一したことものと思われる。扶余王の依羅は、倭国では百済王族だと名乗ったのだろう。
『晋書』馬韓伝
太康元年(280年)と二年(281年)、その君主は頻繁に遣使を入朝させ、方物を貢献した。同七年(286年)、八年(287年)、十年(289年)、また頻繁に到った。
太熙元年(290年)、東夷校尉の何龕に詣でて献上した。
これが中国史籍での馬韓に関する最後の記述で、この後は百済が登場する。
そして、東夷校尉の何龕に献上したとの記述があるが、扶余王の依羅が扶余国の再興を嘆願した相手が、この東夷校尉の何龕であることから、おそらくこの段階ですでに馬韓は扶余の分国になっていたものと考えられる。
『通典』百済条
晋の時代(265年−316年)、高句麗は遼東地方を占領し、百済もまた遼西、晋平の二郡を占拠した。今の柳城(龍城)と北平の間である。晋より以後、諸国を併呑し、馬韓の故地を占領した。
上記は、朝鮮古代史の研究者を悩ませる記述だが、扶余が一時的に滅亡するのが285年、その前後の期間に渤海を渡って遼寧省の西部を占領支配していたとすれば、百済が二国あったことになる。
『日本書紀』は、朝鮮半島の百済を「百済」、遼西の百済を「呉」と区別している。
この「呉」を中国江南の三国時代の「呉」と錯覚している人も多いが、倭の五王の時代に、現在の上海まで簡単に渡航できる船も航海技術もない。従って、呉服は中国伝来ではなく、遼西百済からの伝来である。
ちなみに、『梁書』百済伝には「百済では全土が王族に分封され、その領地を檐魯(タンロ)という」とある。これは国内に止まらず、異国にも檐魯を有している。
中国の広西壯族自治区に百済郷があり、ここの住民は大百済(テバクジェ)と韓国語で呼んでおり、済州島の古名も耽羅(タンロ)国で、常に百済の支配下にあった。
また、大阪府の南端には百済の大門王が統治したという淡輪(タンノワ)があり、田村(たむら)や外村(とむら)などの姓は「檐魯」の住民だったことの名残とされる。
このことから、坂上「田村」麻呂も、百済系だったことになる。
④ 物部は扶余の神官
万葉仮名では、物は鬼「もの」、部は「伴(とも)のう」である。
物部氏は兵馬を担当する氏族とされるが、扶余国では神官、すなわち王族だったのではないだろうか。
『石上神宮』縁起
神武天皇東征のおり、国土平定に偉功をたてた霊剣(平国之剣=フツノミタマ)とその霊力を布都御魂大神と称し、また饒速日命降臨に際し、天神から授けられた鎮魂の主体である天璽瑞宝十種と、その起死回生の霊力を布留御霊大神と称し、この二神を物部連の遠祖の宇摩志麻治命をして宮中に奉斎せしめた。
布都(フツ)=スサノオの父、布都斯(フツス)=スサノオ、布留(フル)=ニギハヤヒ。このスサノオ家三代を祀った宗廟が石上坐布留御魂神社(石上神宮)である。
ニギハヤヒが長脛彦(ナ ガスネヒコ)の妹を娶って、生まれたのが宇摩志麻治命(ウマシマジノミコト)。この物部氏の遠祖とされる宇摩志麻治命(事代主神)は十種の瑞宝を献上 してニニギに帰順した。これらの品々は十種神宝(トクササンタカラ)と言われ、布留魂大神(フルノミタマノオオカミ=ニギハヤヒ)の御霊である。
スサノオが紀伊国熊野に上陸したときに持っていた神宝剣を、佐士布都神(サジフツノカミ)、瓱布都神(ミカフツノカミ)、布都御魂(フツノミタマ)とも言う。
当時の神剣は王権の象徴であり、それを石上(イソノカミ)神宮が祀ることは、物部氏が王統だと表している。古代には王権が祭祀権に統括されており、物部氏が祭祀に関わる一族であることを意味している。
現に石上神宮では、魂振りの呪術、鎮魂(フルミタマ)や布留倍祝詞(フルベノノリト)が継承されているが、これを『物部の呪術』と呼んでいる。鎮魂とは身体から遊離した霊魂を戻すことで、これは古代の『鬼』の神霊力とされたもの。
また、高句麗の始祖神話では、東扶余国王の夫婁(フル)の庶子「朱蒙」は、卒本扶余の沸流(フル)国で高句麗を建国し、沸流(フル)という息子を得ている。まさにニギハヤヒの布留(フル)に合致している。
『常陸風土記』香島郡の条
大坂山(場所不明)の頂上に、白細(しろたえ)の大御服を着て、白鉾を杖とした香島の神が現れ、自分を祀るなら、国々を統治させるであろうと託宣した。
崇神天皇は恐縮して、いろいろな御供物を香島(鹿島)神宮に奉納した
土着民の首長が崇神に国譲りした伝承にも思えるが、白い服を着るのは、扶余の風俗であり、鹿島神宮の権威付けのための話かも知れない。
『日本書紀』は次のような、崇神天皇の奇妙な行動を記述している。
崇神天皇は即位してまもなく疫病が流行り、これを鎮めるため、宮中に祭られていた天照大神と倭大国魂神を皇居の外に移し、更に大物主命を祭った。
天照大神は、現在の檜原神社に移し、その後60年をかけて各地を移動し、次の垂仁天皇の時代に、現在の伊勢神宮内宮に鎮座した。
倭大国魂神も、何度も場所を移動し、最終的に現在の大和神社に鎮座した。
大物主命は占いにより祟りをなしている事が判明したため、大物主の子孫である太田田根子に託して祀らせた。現在の大神神社で、三輪山を御神体としている。
皇居の外に移したとは宮中から排除したことで、しかも、物部の八十平瓮(ヤソヒラカ)をもって大物主大神を祀るとも記している。
八十平瓮は重要な神事、祭祀で用いられる多数の平皿だが、その材料となる土に重要な意味がある。その土を用いて平瓮を作り、呪詛をかけるのだが、これは出雲の流儀であり、大物主は出雲大社の祭神の大国主の別名とされる。
さらに、天照大神からニニギに授けられ、歴代の天皇に継承されてきた神器も、このときに鏡と剣を大和の笠縫邑の檜原神社に移し、後に鏡は伊勢神宮の御神体、剣は熱田神宮の御神体になる。そして宮中には模造の鏡と剣を置いたという。
これでは前政権の全面否定である。やはり扶余王だとしか思えない。
日本海に現れた粛慎「みしはせ」と呼ばれた異国の鬼は、物部氏が扶余の出身であれば、物部氏とは同祖関係にあたり、秘められた同盟関係を感じさせる『物部・安倍・出雲」には友好関係を結ぶのに苦労はなかったと思われる。
だとすれば、阿倍比羅夫は粛慎を退治したのではなく、彼らと交易をしたものと推定できる。そして、蝦夷・粛慎・物部・安倍・出雲・東北の土蜘蛛が東北地方で密かな団結をしていたと想像する。
抜粋以上//
たけのひびきに…2の、その2へ続づく