葛原の聖地へ 2/2 |
高良玉垂命という神様は日本書紀にも古事記にも記録されていないとのこと。
○武内宿禰ー荒木田襲津彦ー宇佐津彦ー九州の王?
「筑後国高良玉垂宮(中略)祭る所玉垂命なり。天平年中武内宿禰荒木田襲津彦を相殿と 為す」(「民部省図帳残闕」)
武内宿禰の母は山下影姫(紀国造の祖、宇豆彦の妹)です。荒木田襲津彦は武内宿禰の子ですが、葛城襲津彦という名のほうが一般的で、葛城氏の祖荒木田氏は伊勢神宮内宮の禰宜の氏族。
山下影姫とは
~~~(某ブログより引用)~~~
応 神、仁徳王朝のキイマンは武内宿禰である。出自は開化天皇の父の孝元天皇と伊香色謎命の子の彦太忍信命の子の、屋主忍男武雄心命が紀伊の宇治彦の女の山下 影姫を娶って生まれたとしている。物部の血が流れている。紀の国に武内宿禰誕生の地などの伝承が残るが、母とされる山下影姫の姿が見えない。福岡県小郡市 の竃門神社、八女郡水田村の玉垂神社に祭神として祀られている。神社は少ないが存在する事は、紀伊の宇治彦の女の山下影姫は、実は九州の女であったのかも 知れない事を示している。東征した神功皇后のモデルの女性かもしれない。
感想ーどうりで私自身がキの国、紀州との繋がりを求められるはずだ…
*昨日のブログより引用
奥野正男氏による地図 武内宿禰の御子達の地名
博多湾 /
−−−−−−/
曾我
平群 羽田
背振山地
=======
==I基肄
武雄 巨勢 I葛木
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜筑後川
有明海
古事記 建内宿禰の子
波多の八代宿禰
許勢の小柄宿禰
蘇賀の石河宿禰
平群の都久宿禰
木の角宿禰
久米の摩伊刀比売
怒能伊呂比売
葛城の長江曽都毘古
若子宿禰
*武内宿禰の母、山下影姫を祀る神社は北九州に鎮座。
*福岡県宗像郡玄海町 葛原神社
福岡県小郡市 竃門神社
福岡県八女郡水田町 玉垂神社
佐賀県武雄市 黒尾神社
八幡古表神社の神相撲では、最後まで勝ち残るのは黒男神(武内宿禰)、強いのだ。
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昨日のブログに引用しているじゃないか〜
*武内宿禰の母、山下影姫を祀る神社は北九州に鎮座。
*福岡県宗像郡玄海町 葛原神社
小倉の葛原神社についてはほとんど情報がない、でも葛原でわかることがある…
しかもその山は、安部山!安倍の山だ…
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磐井の本拠地は八女ー矢部である。八女津姫の故郷…8人の女神たち…8つ、阿武
たしか、阿武は太陽と虹をあらわす音…と知った6月10日のブログ参考
グループソウルの光 8/10
...阿武、阿夫、阿父などの漢字が宛てられ、虻田のように虫のアブ(虻)も宛てられていた。また、「父・太陽 アブ・ラー」 のアブ・ラーが油(あぶら)にも宛てられていた。好例が福岡県平野に並ぶ東油山と西油山の”油”である。さらに「日本書紀」神功皇后摂...
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ソ津彦とその国(日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)
井 上光貞氏は前掲の『日本国家の起源』の中で、ソツ彦について、次のように解訳をしています。「襲津彦とは、襲の男の意味ではなかろうか。襲とは、熊襲の襲 の意味に考えられるから、文字通り解すれば、葛城のソツ彦は、熊襲(襲)の出身者で葛城に土着したものか、大和の葛城の出身で熊襲の征定にも武勲を輝かし たものかであろう」。
こ の葛城ソツ彦は地方豪族という見解に対して、上田正昭氏は『大和朝廷』(一九六七年)の中で、また、井上辰雄氏は『隼人と大和政権』(一九七四年)におい て、それぞれ、ソツ彦を大和の葛城出身者とみなしています。はたしてそうでしょうか。私は、襲の出身者とみなしたい。しかし、この場合の襲は、前述した井 上光貞氏の論説のように、熊襲の意味ではなく、繰り返し説いているように、広い範囲の「ソのクニ」の意味です。「ソツ彦」とは「ソの首長」という意味であ り、日向中央山地を中心にして勢力圏を形成したと推測される「ソのクニ」と、極めて密接な関係にある人物と推定されます。
そ れは、この葛城ソツ彦の本来の名称は、「襲津彦」と呼称されていたのではないかと思われるからです。前掲の『百済記』所載の名称は沙至比脆(襲津彦)と記 されてあり、また『日本書紀』の葛城ソツ彦に関する所伝においても、はとんど「襲津彦」と記されています。すなわち、「神功皇后紀」五年、同六十二年、 「応神天皇紀」十四年、同十六年、それに「仁徳天皇紀」四十一年の各条に葛城ソツ彦についての記事が認められるのですが、しかし、子細に考察すると、「葛 城襲津彦」と明記してあるのは、「神功皇后紀」五年と「応神天皇紀」十四年の二か所だけであり、あとの五か所はすべて「襲津彦」となっています。さらに、 この「襲津彦」と記載してある条の説話は、三品彰英氏も指摘しているように、渡来人による伝承に基づいているということになれば、「襲津彦」という呼称の 方が、より原初的な人名ではなかったかと思われます。そして、「葛城襲津彦」と記述してある二か所も、ともに大和王朝が葛城襲津彦を派遣したと記されてあ る記事のところのみになっています。九州に勢力圏を有したソツ彦は、朝鮮半島との交流もあり、その地理にも委しかったのではないかと思われます。『百済記』の中で、「襲津彦」を「沙至比脆」と記してあることが、より史実性を高めています。
以 上から考えられることは、本来の人名は「ソツヒコ」であったが、その後は大和地方と密接な関係ができ葛城地方に拠点がつくられるようになってから、「葛 城」という名称がつくようになったのではないでしょうか。大和王朝の撰者によって成った『古事記』の中では、すべて「葛城之曾都毘古」と記述してあること からも、一層その感を深くするのです。
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みこの感想
:香月の杉守神社も襲津彦に導かれて行きました。
*篠崎八幡に書かれていた一行、葛城小藤丸なる存在…
あっ出てきてたじゃん。小藤丸だ…
そして、ある頃は、イタケル、いそたける、ワカタケル…ほか、
夢でくりかえし、ソのつくところ、ソシモリ、ソホフル…と入ってきていました…
「ソ」の地域
・「ソ のクニ」という地域は、古くから阿蘇山を中心とする地帯(阿蘇山、祖母山)から南霧島山一帯にかけての呼称であり、日向、肥後、大隅の三国に囲まれた山岳 地帯周辺に、古く「ソ」という勢力圏が存在していたのではないか?「ソ」の中心地域は、宮崎県の高千穂一帯、それに熊本県阿蘇郡、さらに大分県直入郡地方 を含めた地帯と考えられる。(日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)
・「ソ」とは「山岳地帯」という意味か、となると、更に北の久住山(クジフル)や玖珠、耶馬溪なども含まれるのかも知れない? その意味で、米良鹿物語も興味深い
塩土(しおつち)の翁 別名、国主事勝国勝長狭(くにぬしことかつなさ)。実は、佐田彦大神とも猿田彦大神とも言われ、別名、多く、天火明命、天照御魂神・天照国照彦火明命とも呼ばれる。史話になると、武内宿祢と 名前を変える。日本書紀では、さらに海神豊玉彦(わたつみとよたまびこ)塩土の翁とか、猿田彦とか海神とか、ころころ名前を変え謎めかしている。紀(二> 九)では伊勢の狭長田(さなだ)の五十鈴の川上に鎮まるとするが、伊勢を中心として紀伊半島に大きな基盤があったようである。この神名は、大綿津見神【お ほわたつみのかみ】のほか、賀茂別雷神【かもわけいかづちのみこと】と同一ともされ、竜神にも変貌する。伊弉諾尊 (伊邪那岐命・いざなぎ)・伊弉冉尊 (伊邪那美命・いざなみ)二神の間に生まれたとされる。雷神や道祖神、海神(わたつみ)の神にもあり、恵比寿様の実像。また行列を先導する天狗として庶民 の尊崇を集めていた。古事記では、瓊々杵命に一に二もなく恭順したような物語に仕立てているが、そんな小者ではない。⇒五章■サルタヒコの実像に続く。
宗像三女神(道主貴=みちぬしのむち、海北道中の航海守護の神)は北九州と朝鮮半島の海路(航路)・玄海灘に祀られている(宇佐氏の宇佐嶋に天降ったとする伝承もあり、『宇佐氏系図』によると宇佐津彦は宗像三女神の御子とされている)。
田心姫は玄海灘の只中にある沖ノ島の沖津宮に、湍津姫は筑前大島の中津宮に、市杵嶋姫は北九州の辺津宮(田島)と三宮(三宮を総称して宗像大社)に祀ら れている(『古事記』は田心姫と大国主の間にアジスキタカヒコネ命と高比売命が生まれたとし、『旧事本紀』は湍津姫と大己貴との間に八重言代主命と高照光 姫命が生まれたとしているところから、宗像地方と出雲地方の密接な関係を窺わせる)。(※注1)
このように海神を三柱の神を一組として祀る形は、航海民・海人族の信仰によく見られる(阿曇氏の三神と津守氏の三神は、伊弉諾尊の日向の橘の小戸の阿波岐原での禊ぎ祓いの神話で登場)。
阿曇氏の綿津見三神(底津・中津・表津少童命、志賀海神社・海神社・綿津見神社)と津守(住吉)氏の筒男三神(底筒・中筒・表筒男命、住吉神社)は、大 和朝廷の有力な豪族の一員であったため(特に住吉の神は神功皇后の三韓遠征説話で軍船の守神・航海の神とされる)、比較的新しい時期に『記・紀』神話の体 系に加えられたようだ。
(*ちなみに藤原宮子は津守氏に関わり深いようだ)
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参考資料ーこんな説も興味深い…宇佐津姫=トヨであり、宇佐津彦=武内宿禰 yumiki.cocolog-nifty.com/station/2007/12/post_f0e6.htmlより引用
ところで九州は、古くは「宇佐嶋」とも呼ばれており、宇佐の重要性が理解されます。
宇佐津姫=トヨであり、宇佐津彦=武内宿禰だと考えられます。二人は宇佐嶋=九州を代表する王族ペアだった…?
「宇佐津彦&宇佐津姫」の伝承は、ふつう、ヒコ・ヒメの〈双分制〉を反映したものといわれます。これと同じ関係は、『倭人伝』のヒミコ(=北九州女王ナツシ/神夏礒媛)と「弟王」にも見出される。
女王ナツシの脱走後、北九州連合を支えて指揮したのはミヌ(水沼)の王・猿大海でした。つまり彼には女王に匹敵する権力があったわけだ。「弟王」とは彼のことではあるまいか?
その猿大海が、ついにナラ軍に降ったのは、久留米に近い藤山でした。藤山の対面は古代の要地・高良山で、ここはミヌ側の「最終防衛線」だった-と推定されます。
これを考えると、高良大社に武内宿禰が祀られているという事実は、重要な意味を持ってきます。つまり彼は、北九州ミヌの王族であり、猿大海の後継者ではなかったか…と思えるのです。
これら全てを整合すると、次のような推定が成り立ちます。
1)北九州の2王-ヤマト女王のナツシとミヌ王のサルオオミは、「姉・弟」の関係にあった。
2)トヨは、女王ナツシの「姪」で、女王の降伏時に王子妃として差し出された。いっぽう武内宿禰は、猿大海の後継者(息子?)で、「敗戦国の人質」として大王の手元に引き取られた。トヨと彼とは「宇佐嶋=九州」を代表する2王族で、「宇佐津姫・宇佐津彦」と並称された。
3)大王連戦にたまりかねた重臣団(中臣・大三輪・物部・大伴)は、武内宿禰を使って、大王を暗殺させた。その手柄と、彼とペア関係にあるトヨが擁立されたことから、武内宿禰は政権内で台頭した。
4)武内宿禰は、東征戦では別軍に回されたが、結果的には彼が強敵オシノワケを討ち破った。そして彼はトヨを救出、新王朝の実権を掌握した。
◆ナラ・ヤマト・ミヌの「3王家」の関係は?
だが、問題はまだ残ります。これはD-古代の氏族系統に関わることです。
オオタラシヒコ(景行)-ワカタラシヒコらの畿内ナラ王族は、伽耶→出雲→山陽→畿内と渡ってきた「タラシ系」と考えられる。
いっぽう神功(トヨ)はオキナガタラシヒメと呼ばれており、これから北九州ヤマト王族も、同じ「タラシ系」と思われます。
両王家が同族というこの仮定は、〈★解論・五〉で提示した「大王と女王の密約」ともきれいに整合するものです。
しかしでは、ミヌ王家はどうでしょうか? Dで示したよう、武内宿禰は明らかに「タラシ系」とは異なった系統です。「武内宿禰=ミヌ王・猿大海の子」と考えれば、ナツシと猿大海の関係は「実の姉・弟」ではなかったことになる。たとえば猿大海がナツシの姉妹を娶るなどして、「義理の姉・弟」になっていたのではないだろうか?
なお推測を重ねれば、これは「アマ系/サカ系」の二つの起源集団を考えることにつながります。つまり…
★アマ[天人・海人]系
扶余→百済→伽耶系の征服集団。天降神話、また海民特有の日月信仰・ヤマ信仰らを保持していた。北九州と畿内の両「タラシ王族」がこの代表。
★サカ[坂・佐嘉・酒]系
スキタイ(原名サカ)→新羅・伽耶系の軍事集団。金属文化や戦士結社が主な特徴。肥前の佐嘉(佐賀)一帯を足がかりに、後発者が続々と渡来した。「巨勢・平群・紀・葛城・蘇我・羽田(秦)」らは全てこの系統。
北九州連合の内部で、この先着アマ系(女王ナツシ)と新着サカ系(猿大海)の軋轢があったと考えれば、女王の脱走投降も、より納得がしやすいのだが…。
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◆なぜ「防人」は東国から徴発されたか?http://yumiki.cocolog-nifty.com/nautica/2010/09/111-36d7.htmlより引用
大和朝廷は、唐-新羅連合軍に白村江で大敗(663)した直後から、北九州に海防守備隊を配しました。これがいわゆる「防人/さきもり」です。
その創設の初期(664~757)には、防人には東国兵が徴用された。『万葉集』には多くの防人歌が採られており、徴用された東国兵にとってその負担が苛酷であったことが知られます。757年以降は、防人には九州兵をあてるよう変わりました。
では次の問題を考えます。どうして大和朝廷は、創設初期の防人に、地元の九州兵でなく、わざわざ東国兵を差し回していたのでしょう?
これは僕の仮説では、次の構図で説明できます。
東国「アマ族・カモ族」=ツングース系→百済・高句麗と同種。
●北九州「サカ族」=モンゴル系→新羅と同種。
つまり北九州の住民は、「新羅と同種」であるゆえに、新羅と結託する危険を危ぶまれたと思うのです。
これはけして杞憂ではなく、現に一度「磐井の乱」として起こっていました。筑紫君磐井は新羅と結んで叛乱挙兵し、継体王朝を崩壊せしめた(530~531)。大和朝廷は「磐井の乱」の再発を恐れたゆえ、九州兵を信用しなかったのだと思います。
ついでに「★国造本紀」を見ると、築紫国造の祖は、阿部氏の日道命(オオヒコ五世孫)です。この阿部氏が「東国カモ族」であったことは解説ずみです。(→「★阿部氏・安倍氏の誕生」)
そこで築紫国造=阿部氏も、のちの防人同様に、朝廷が北九州に打ち込んだ「東国勢のクサビ」であったと思います。
(対して磐井は、おそらく米多国造=息長氏=サカ族にあたるはず)
◆なぜ道真が「天神」なのか?
菅原道真が、藤原氏の陰謀で陥れられ(901)、その怨霊が「天神」として祀られたことは有名です。
それにしても、平安時代には他にも失脚・恨死した政治家はいっぱいいた。平城上皇のクーデター失敗(810)で犠牲になった藤原仲成・薬子の兄妹とか、応天門の変(866)で藤原氏に潰された伴善男とか、道長と政争して蹴落とされた藤原伊周とか、もろもろです。
これら多くの犠牲者のうちで、道真の怨霊が特に畏怖され、あまつさえ「天神」として祀られたのは何故でしょうか?
じつは菅原氏は、もとが土師(はじ)氏で、そのもとはアマノホヒ系の出雲氏です(たとえば出雲広貞の子は菅原岑嗣)。
この出雲氏の祖は、出雲に割拠した「八千矛のワカ王」で、つまりはワカタラシヒコ(オホタラシヒコの第一王子)の血統です。
であれば道真は、単なる学者政治家でなく、じつはオホタラシヒコ大王の血を引く「旧王家の末裔」だったことになります。藤原氏は彼を陥れたことによって、アマ族「旧王家」の枝の一つを完全に潰したのだ。このように理解すると、「旧王家の末裔」道真の怨霊が特に畏怖されたのも、当然だと思われます。
また道真が「アマつ神=天神」と称されたことから、まだ平安時代の人々には、アマ族やサカ族らの過去が記憶されていたと察せられます。
それらの過去が忘れられ、人々の世界観が完全に転換したのは、おそらく「源平の争乱期」だったでしょう。
抜粋以上//
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なかなか興味深いですね…どんどんわかってきました。
やはり、豊前ー豊後境界ラインまでの磁場調整 は非常に重要のようです。
今日は、大きな一歩でした。安部山、妙見山も重要な宇佐島だったのですね…
すべての仲間といま、繋がりました。私たちの今にゆかり深いこの山へと最新の光で、繫がったからです…
足原は葦の原…そういえば、小倉に宇佐町という場所もありますね…リトル宇佐です。
地名が人々とともに移ってきたのでしょう。