薩邪馬は何故終焉の地を豊国・鏡山に選んだか |
1.薩邪馬
663年の、唐・新羅連合軍対倭国・百済連合軍の白村江の戦いで敗れ、唐の捕虜となり、10年後に、倭国に戻って来たという、筑紫の君・薩邪馬については、帰国後どうなったか、記録が全く見当たりません。
筑紫の君・薩邪馬とは、倭国の最後の王と思われます。
この王が、その後、どういう運命を辿ったのか、帰国したという記録はありますが、その後の消息は記録がありません。それを調べたという文献にもお目にかかったことがありません。
しかし、どこかに、その記憶が残っているはずだと考え、それを探してみました。
そしてあくまで仮説ですが、福岡県の香春の鏡山に眠っているという河内王を、この薩邪馬であるという仮説をたてて見ました。
したがって合っているものやら、とんだピント外れなのかは、これからの進展しだいです。
と言っていましたが、その後なんと、度肝を抜くような大発見に繋がって行ったのです。
2.手持女王の歌の疑問
根拠といえるような根拠とは、以下の万葉歌三首です。
資料1の、河内王を豊前国・鏡の山に葬る時、手持(たもち)女王の作る歌三首、をご覧ください。
歌った時期は、692年から694年の間です、下の資料3の、ホームページ「九州歴史紀行」さんの、日本書紀抜粋に記述されています。
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資料1 河内王を豊前国・鏡の山に葬る時、手持(たもち)女王の作る歌
王(オオキミ)の親魄(ニギタマ)逢へや豊国の鏡の山を宮と定むる
豊国の鏡の山の岩戸(イワト)立て隠(コモ)りにけらし待てど来まさず
岩戸破る手力(タヂカラ)もがも手弱き女にしあれば術の知らなく
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この歌三首からの疑問点を、列記します。
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資料2 疑問点
1、宮という表現は、河内王が、王族であることを表しているのか?
2、近畿から派遣されてきたという河内王が、何故、九州で葬送されるのか?
3、鏡または鏡の山の枕詞が、「豊国」になっている。どういう関係なのか?
4、鏡、岩戸、こもる、手力とくれば、天照大神の天地創造神話を、どうしても思い起こさせる。どういう意味合いを持って、歌の中に読み込んだのか?
5、歌の読まれた年が、692年から694年の間であるから、古事記・日本書紀が編纂される以前である。何故、手持(たもち)女王が、国記に記述される前に、岩戸神話の国家機密を知っていたのか?
6、鏡山とは、後で考察するように、神功皇后が、鏡山に登って国の形を見て、その山に鏡を埋めたという、伝説のある山である。何故、その山を葬送の地に選んだのか?
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これらの疑問点について、解説した書を、読んだことがありません。
しかたないから、これらの疑問点を、ひとつひとつ考察していきますが、この考察から、考えもしなかったような、意外な展開へ繋がって行きます。
3.河内王
これらの疑問点を考察する前に、次のホームページの記事を、参考にさせていただきます。
ホームページ「九州歴史紀行」さんより転載
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資料3 ホームページ「九州歴史紀行」
河内王の埋葬地は「河内王を豊前国鏡の山に葬る時」と「万葉集」の前文に書かれていますので福岡県田川郡香春町鏡山に河内王が葬られたと推定され定説になっています。
宮内庁陵墓指定の経過としては、明治二十七年五月、当時陵墓管理業務をしていた内務省から県の社寺課へ、万葉集にある手持女王の歌の鏡山陵を至急調査し て報告せよという通達が届きました。そこで県庁から香春町の社寺兵事課へ連絡して、両所の職員が共に現地調査に当たり現在の場所に陵墓参考地として指定さ れたようです。
河内王は、日本書紀にもその名が残っていますで以下に記述します。
日本書紀の天武天皇の朱鳥元年(686年)正月『この月、新羅の金智祥に饗を賜わるために、浄広肆川内王・直広参大伴宿禰安麻呂・直大肆藤原朝臣大嶋・直広肆境部宿禰(魚偏に制)魚・直広肆穂積朝臣虫麻呂らを筑紫に遣わした。』:河内王は、饗応使として九州に下っています。
同年九月二七日『次に浄広肆河内王が左右大舎人のことを誄した。』:天智天皇の崩御は九月九日ですが、この日に七人で誄を奏しています。
持統天皇三年(689年)八月二十七日『浄広肆河内王を筑紫太宰帥とした。武器を授けられ物を賜った。』:太宰帥(だざいのそち もしくは、だざいのそつ)とは九州方面の今で言う軍事、行政、外交、における長官と言えるでしょう。
持統天皇四年(690年)十月十五日『使者を遣わして、筑紫太宰河内王らに詔して、「新羅の送使大奈末金高訓らの饗応は学生土師宿禰甥らを送ってきた送使の饗に準ぜよ。
その慰労と賜物は、詔書に示されたことに従え」といわれた。』:金高訓らは、大伴博麻を日本に送り届けてくれています。
持統天皇六年(692年)閏五月三日『筑紫太宰率河内王らに詔して、「沙門を大隅と阿多とに遣わして、仏教を伝えるように。また大唐の大使郭務(小偏に宗)が、天智天皇のために造った阿弥陀仏像を、京に送りたてまつれ」といわれた。』:大唐の大使郭務(小偏に宗)は、天智天皇十年十一月に唐の使人郭務(小偏に宗) 等2000人が来倭、天智天皇三年五月朝散大夫郭務(小偏に宗) 等に見えます。
持統天皇八年(694年)四月七日『浄大肆の位を筑紫太宰率河内王に追贈し、合わせて賻物を賜った。』:持統天皇八年四月七日以前に河内王は亡くなったのでしょう。
この日本書紀に見える河内王と万葉集に見える河内王が同一人物であるという説がもっとも有力ですので、この説に従ってお話を進めて行きます。
ところで河内王の墓は、福岡県田川郡香春町鏡山に所在する外輪崎古墳と呼ばれる宮内庁一級陵墓参考地がそれとされていますが、この説に対して異論もあることをご紹介しましょう。
(郷土史誌かわら第四十一集福田勝南氏の香春の遺跡より引用)
「河内王の 陵墓は鏡山神社の西麓に連なる丘陵突端付近(外輪崎)に所在する。円墳で内部主体は石灰岩の自然石使用による横穴式石室である。すでに盗掘を受けており、 出土遺物については不明である。なおこの古墳は宮内庁指定による一級陵墓参考地の河内王陵であるが、これについては二、三、の疑問がもたれている。その一 つの理由として、この古墳の築造年代が六世紀後半から末葉であると言われている点である。河内王は七世紀後半を生きた人であるので、その陵墓としては年代 があわなくなる。
そうした理由から同じ鏡山の大君原を王の墓(火葬墓)と見る意見も有る。筆者はこれについては、反対の意見を持つものではないが、なお経塚の可能性のあることをも付け加えておきたい。」:以上引用終了
外輪崎古墳の主を、日本書紀にもその名が残っている河内王と考えた場合時代的に矛盾が生じてしまうわけなのです。地元の郷土史会の方にお聞きしたのです が、明治時代に宮内庁がどちらの墓を河内王の墓にしようかと迷われた時に大君原には民間の墓地もすぐ隣にあり現在の河内王の墓のある場所がふさわしいとい う事で現在の場所に決まったそうです。また鏡山地区では、おなじ鏡山地区の大君原に河内王が埋葬されたという伝承があり河内王の墓は、大君原の可能性もあ ります。
なお鏡山と いう地名に関して、「風土記逸文」に 〔鏡山〕『豊前国風土記に伝く。田河の郡鏡山。(郡の東にあり)。昔者、息長足姫尊、この山に在しまして、遥に国形 を覧はして、勅祈ひたまはく。天神地祇、我が為めに福ひせよといひて、便ち御鏡を用いて、此処に置きたまひき。その鏡、やがて石に化りて、見この山中にあ り。因りて、名づけて、鏡山と曰くふ。』 と記載されていて、この香春町の鏡山とするのが定説です。
また香春町には、清祀殿という宇佐神宮の放生会に奉納する御神鏡を鋳造していた県指定の文化財もあり鏡山の地名と関係があるかもしれません。
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資料3の、筑紫太宰帥として赴任してきた河内王と、資料1の、香春の鏡山に葬送された河内王、名前が同じなら年代も場所も同じ、他に河内王という名前の人は居ません。
ならば同じ人に決まっています。
で、薩邪馬が、唐での抑留から解放されて帰国したのが673年、河内王が、浄広肆川内王として下ってきたのが686年、筑紫太宰帥に任命されたのが689年、亡くなったのが693年頃です。
倭王・薩邪馬が673年に帰国後、倭国を譲り河内王に降格し、686年に地元の九州に戻されたと考えられます。そうすれば、河内王が、旧倭国の帝・薩邪馬と考えても、障害は無いように見えます。
結局、673年から686年の間に、「国譲り」の交渉が行われたのでしょう。つまり、倭国が日本国に併合されたということです。そして新羅使の饗応を命ぜられたり、仏典や仏像を差し出すよう命令されています。寺院や宝物も、当然差し出すよう要求されたでしょう。銅や鉄などの貴金属も、召し上げられたでしょう。さらに好字の地名までも。そして無一物になって、倭国は解体したのです。
ここで、次の仮説を提唱します。
仮説145−1
豊国鏡山に葬られた河内王とは、白村江で敗れた筑紫の君薩邪馬であり、倭国最後の王である。