3/3,スピリットのディセンションについて/おもいかね‐の‐かみ〔おもひかね‐〕【思金神/思兼神】 |
空海、故伊予親王追善供養の願文を草する
桓武天皇の皇子伊予親王は、大同2(807)年に母藤原吉子と共に大和飛鳥の川原寺(弘福寺)に謂れのない謀反の首謀者に仕立てられて幽閉され、毒を仰いで死んでしまいました。
伊予親王は嵯峨天皇の異母弟であり、空海の叔父の阿刀大足は伊予親王の家庭教師でもありました。
この非命に倒れた二人の幽魂を弔うための法会を営んだ時、空海は願文を草しました。
阿刀大足…
平 安初期の学者。空海の母方のおじ。桓武天皇皇子伊予親王の侍読として活躍したが,大同2(807)年10月の親王謀反の事件に巻き込まれたものか,その後 の事績などは不明。甥の空海が大足を頼って上京(平城京とも長岡京とも),大学へ入学する以前,論語,孝経,史伝などの個人指導を行ったことが,空海の 『三教指帰』序などで知られる。空海の入唐実現は大足の援助によるといい,かの地で発揮された中国語や漢学の才能も大足の影響が大であったといわれる。空 海を世に送り出した恩人といってよい。阿刀神社(京都市右京区嵯峨野)は平安遷都の際に移されたと伝える阿刀氏の氏神で,小さな祠を残すだけであるが大足 を偲ぶよすがとなっている。また上品蓮台寺(北区紫野)にも阿刀氏塔と称するものがある。
(瀧浪貞子)
伊予親王は以下の神社に祀られています。
伊豫神社
〔いよじんじゃ〕愛媛県伊予郡松前町神崎193
文永年間(1264〜75)の火災で社記等が焼失したため、創建などについては不詳。
御祭神の彦狭王命は孝霊天皇の皇子で伊予皇子とも呼ばれ、
越智氏の祖とされる。社伝によれば、詔によって伊予国に下向し、伊予郡神崎庄に住んだといい、後にここが霊宮と崇められるようになった。これが後の親王宮(伊豫神社)であるという。
愛 比売命は伊予の国魂神、伊予津彦命は伊予・久米両郡の開拓神、伊予津姫はその妻とされる。大日本根子彦太瓊尊(孝霊天皇)と細媛命は御祭神の両親。速後 神命(速後上命)は成務天皇の御代、伊予国造に任ぜられた。伊予親王は桓武天皇の第三皇子で藤原吉子はその母。二人は伊予親王の変で無実の罪により自害し た。
延喜式神名帳所載の名神大社・伊豫神社の論社。当社から少し離れた伊予市上野宮に同じ論社の伊豫神社がある。また伊豫豆比古命神社を伊豫神社に当てる説もある。
阿刀大足…
空海の母方、阿刀氏は渡来人であり、。阿刀氏の家系は多数の優れた宗教家を輩出しており、法相宗が興隆できた理由もそこにあるようです。阿刀氏が 活躍した時代を理解し、同じ親族である空海との接点を見出すことが、空海の知られざる七年間を理解するための大切な鍵となります。
まず、空海の活躍と同時期に法相宗を隆盛に導いた興福寺の善珠に 注目です。八世紀の終わり、南都六宗では経典暗誦よりもその解釈を極めることが重要視さ れ、その結果、法相宗が他宗を圧倒するようになりました。当時、法相宗のリーダー格であった善珠は朝廷とも深い関わりを持ち、皇太子安殿親王の厚い信頼を 受けていただけでなく、殉死した早良親王とも交流がありました。この善珠こそ、法相宗法脈の頂点に立つ玄ほうの愛弟子であり、しかも玄ほうが護身を勤めた 藤原宮子と の間にできた子なのです。善珠の卒伝には「法師俗姓安都宿禰」、玄ほうも「玄ほう姓阿刀氏」と書いていることから、共に阿刀氏の出であることが 伺えます。更に「東大寺要録」を参照すると、玄ほうの師である義淵(ぎえん)も阿刀氏、玄ほうも「玄ほう姓阿刀氏」なのです。つまり義淵から玄ほう、そして善珠と引き継がれてきた法相 宗の法脈は、まぎれもなく阿刀氏によって継承され、奈良から平安時代初期にかけて頂点を極めました。(途中省略)
その法相宗の流れを汲む学者の一人が、空海の母方の伯父である、阿刀大足です。彼は朝廷において桓武天皇の子である伊予親王の 侍講を勤めただけでなく、空 海にも教えていました。つまり伊予親王だけでなく、空海も阿刀大足を通じて法相宗の僧侶らと親交を深める機会があったと考えられます。それ故、空海は南都 六宗の在り方を批判することはあっても、友好的な関係を保ち、後に高野山を開いた際も、穏やかに聖地を構えることができたのです。阿刀氏であるが故、天皇 を初めとする朝廷と南都六宗で一番の勢力を持つ法相宗、双方の人脈に恵まれた空海は、いつしか天皇の信任を得て、それまで誰も手がけることができなかった 極秘調査に着手するよう朝廷より命を賜ったのです。
http://www.naritacity.com/journal/japan/journal_japan_090915.asp
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なんか、不思議…まるで金太郎あめのように、どこを切っても出てきます…
それでそれでまだまだ続きます…一番最初に戻ります。くあまおうじー9人の王子 で検索していてそうなったのです。
くあまー阿毎(あま)、高良山の垂玉命の子どもたちー(垂玉命ー安曇イソラとも、たけのうちすくねとも)
そのまえに、上記の…
愛 比売命は伊予の国魂神、伊予津彦命は伊予・久米両郡の開拓神、伊予津姫はその妻とされる。
大日本根子彦太瓊尊(孝霊天皇)と細媛命は御祭神の両親。
ここでまた大日本根子彦太瓊尊(孝霊天皇)が出てきました。
それで調べて記事をのせたばかりです…つい先日、6月 10日のブログにて
グループソウルの光 6/10(?)
…さて、どんどん、遡って行きましょう。
九州の呼称は9国(豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅 、薩摩)からなっていたことに由来すると俗に言われる
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nikki/nikki023.html 古賀事務局長の洛中洛外日記
第23話 2005/08/19
「高良玉垂命と九躰皇子」
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〔高良玉垂命と九人の皇子(九躰皇子)〕
高良玉垂命(初代)ーーーー斯礼賀志命(しれかし)→隈氏(大善寺玉垂宮神職)へ続く
物部保連(やすつら) |
|ーー朝日豊盛命(あさひとよもり)→草壁(稲員)氏へ続く
|ーー暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
|ーー渕志命(ふちし)
|ーー渓上命(たにがみ)
|ーー那男美命(なをみ)
|ーー坂本命(さかもと)
|ーー安志奇命(あしき)
|ーー安楽應寳秘命(あらをほひめ)
※読みは「草壁氏系図(松延本)」によった。
このことを調べるきっかけになったのが、やはり 【大倭根子日子國玖琉命】孝元天皇 からだった…
ふたたび、【大倭根子日子國玖琉命】孝元天皇 とは…
大倭根子日子國玖琉(おおやまとねこひこくにくる)の命、輕(かる)の堺原(さかいはら)の宮に坐しまして天の下治しめしき。
此の天皇、穗積の臣等の祖、内色許男(うつしこお)の命【色許(しこ)の二字は音を以ちてす。下、此に效え】の妹、内色許賣(うつしこめ)の命を娶りて生みし御子は、大毘古(おおびこ)の命。
次に少名日子建猪心(すくなひこたけいごころ)の命。次に若倭根子日子大毘毘(わかやまとねこひこおおびび)の命【三柱】。
また内色許男の命の女、伊迦賀色許賣(いかがしこめ)の命を娶りて生みし御子は、比古(ひこ)布都(ふつ)押之信(おしのまこと)の命【比より都に至るは音を以ちてす】。
また河内の青玉(あおたま)の女(むすめ)、名は波邇夜須毘賣(はにやすびめ)を娶りて生みし御子は、建波邇夜須毘古(たけはにやすびこ)の命【一柱】。
此の天皇の御子等は并せて五柱。故、若倭根子日子大毘毘の命は天の下治しめしき。其の兄、大毘古の命の子、建沼河別(たけぬなかわわけ)の命は【阿倍の臣等の祖】。
次 に比古伊那許志別(ひこいなこじわけ)の命【比より志に至る六字は音を以ちてす。此は膳(かしわで)の臣の祖也】比古布都押之信(ひこふつおしのまこと) の命、尾張の連等の祖、意富那毘(おほなび)の妹、葛城の高千那毘賣たかちなびめ)【那(な)毘(び)の二字は音を以ちてす】を娶りて生める子は味師内宿 禰(うましうちのすくね)【此は山代の内臣の祖也】。また木の國造の祖、宇豆比古(うづひこ)の妹、山下影日賣(やましたかげひめ)を娶りて生みし子は、建内宿禰(たけのうちのすくね)。此の建内宿禰の子は并せて九たり【男七たり、女二たり】。
波 多八代宿禰(はたのやしろのすくね)は【波多の臣、林の臣、波美(はみ)の臣、星川の臣、淡海の臣、長谷部の君の祖也】。次に許勢小柄宿禰(こせのおから のすくね)は【許勢の臣、雀部(さざきべ)の臣、輕部の臣の祖也】。次に蘇賀石河宿禰(そがのいしかわのすくね)は【蘇我の臣、川邊の臣、田中の臣、高向 (たかむく)の臣、小治田(おはりだ)の臣、櫻井の臣、岸田の臣等の祖也】。次に平群都久宿禰(へぐりのつくのすくね)は【平群(へぐり)の臣、佐和良 (さわら)の臣、馬御(うまみくい)の連等の祖也】。次に木角宿禰(きのつののすくね)は【木の臣、都奴(つぬ)の臣、坂本の臣の祖】。次に久米能摩伊刀 比賣(くめのまいとひめ)。 次に怒能伊呂比賣(ののいろひめ)。次に葛城の長江の曾都毘古(そつびこ)は【玉手の臣、的(いくは)の臣、生江(いくえ) の臣、阿藝那(あぎな)の臣等の祖也】。
また若子宿禰(わくごのすくね)は【江野財(えののたから)の臣の祖】。
此の天皇の御年は伍拾漆歳(いそとせあまりななとせ)。 御陵は劍の池の中岡の上に在り。
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建内宿禰(1)
たけうちのすくね (武内宿禰・竹内宿禰)
系図・香椎宮・気比宮
【古事記】
〔孝元天皇の巻〕
系図
建内宿禰の父はヒコフツオシの信(マコト)の命。母は山下影姫。
父には別の妻・葛城のタカチナ姫がいて、子供にウマシウチの宿禰がいます。
この建内宿禰の子供は合わせて9人です。
男7人、女2人。
波多の八代の宿禰。(波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君の祖。)
次に許勢の小柄(おから)の宿禰。(許勢臣、雀部臣、軽部臣の祖。)
次に蘇賀の石河の宿禰。(蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣らの祖。)
次に平群の都久の宿禰。(平群臣、佐和良臣、馬御機連らの祖。)
次に木の角(つぬ)の宿禰。(木臣、都奴臣、坂本臣の祖。)
次に久米のマイト姫。
次にノノイロ姫。
次に葛城の長江のソツビコ。(玉手臣、的臣、生江臣、阿曇那臣らの祖。)
又、若子(わくご)の宿禰。(江野財臣の祖。)
武内宿禰http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/takenouti.html
タケノウチノスクネ
別 称:御食津大神(ミケツノオオカミ)(気比神)、武内宿根、高良玉垂神(コウラタマタレノカミ)性別:♂系譜:第八代孝元天皇の孫。7人の子は大和朝廷を 支えた葛城氏、平群(ヘグリ)氏、蘇我氏、巨勢氏、紀氏、波多氏、江沼氏の祖神格:長寿の神神社:宇倍神社、高良大社、高麗(コマ)神社、平塚八幡宮、気 比神宮
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ここで…瞑想の時にハイヤーセルフにたずねて、出てきた言葉が2つ隠されていた…
このせ、こまでん…これを漢字でかくと、このせは…上記の許勢の小柄(おから)の宿禰。(許勢臣、雀部臣、軽部臣の祖。)となる。
また、こま…とは高麗であり、上記の…高麗(コマ)神社の高麗である…まてよ…
上記資料の東漢 駒(やまとのあや の こま、生年不詳 - 崇峻天皇5年(592年)11月)も気になる。東漢 駒とは…
そういえば、いつか、埼玉のオーガニックの取引先をおとずれたとき、高麗神社なるものがあり、すご〜く懐かしく、母と喜んだ!そこの神社の風景を思い出しました…大きくて、由緒ただしい神社だった。
それはおいといて…東漢 駒とは…
飛鳥時代の人物。東漢氏。姓(カバネ)は直(あたえ/あたい)。
父は東漢直磐井(いわい)か。『聖徳太子伝暦』一本には、駒の別名を盤(いわお)と、またの別名を駒子という。
崇峻天皇5年(592年)11月、蘇我馬子の刺客として崇峻天皇を殺害する。しかしその月に、馬子の娘である河上娘(崇峻天皇の嬪)との密通が露見し、馬子によって処刑された(崇峻天皇暗殺の口封じといわれている)。
ええええええ〜なんか、いろいろなことが思い浮かびます。
ざわざわ…どきどき…東漢直磐井(いわい)聖徳太子…
いわいって…どういう意味だろう、ずっと気になっている磐井の乱の磐。昨日の夢にも出てきた…今朝も本を1冊、はや読みした…
おもいがけず、また磐井。私と何の関係があるのかな。皆さんとどんな関係があるのかな。
、所謂「磐井の乱」を起こした「筑紫王磐井」古事記では 石井。
イハヰーイワイです。
『角川古語辞典』によれば、「岩間から湧き出る泉を掘って井戸としたもの」だそうです。
山城國乙訓郡 石井神社[イハヰ] 清水を神格化した古社なり。
イハヰ は 泉や水に関した神社のようで、神社の原点に近い存在なのだといいます。
『日本書紀』
456年雄略即位前、御馬皇子(市辺押磐皇子の同母弟)は三輪の磐井の井戸の横で待ち伏せされ、殺された。この時、御馬皇子は井戸をさして呪った。「この水は百姓は飲めるが、王者だけは飲めない。」と。
524筑紫君磐井が反乱、西の国をわがものにしようとしている。
591崇峻五蘇我馬子、東漢直磐井の子の駒を使って崇峻天皇を暗殺した。
これらを勘案しますと、
磐井(イハヰ)とは、邪なる者、もしくはヤマト王権へ仇なすモノの名のようです。
これはまるで、今に解かれる暗号のように思えて…
長くなりましたが、今朝もやはり、磐井(イハヰ)にたどり着きました。
それを解く手がかりは、八女にある…気がして。
磐井の乱についてはほとんど資料がないので、この591崇峻五蘇我馬子、東漢直磐井の子の駒を使って崇峻天皇を暗殺した。の事件を引き寄せてみようと思います。
それから、埼玉の高麗神社、それを調べてみよう…(まるで探偵のよう笑)
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