遠賀川の記紀伝承 |
田川市史より
藤原広嗣は遠賀郡家(芦屋町芦屋付近)に軍営を設け、鞍手道を進んた。
広嗣の弟綱手、多胡の古麻呂も田河の道を通って板櫃川へ集結した。
軍勢には、
京都軍郡司楉田(しもとだ)勢麻呂
仲津郡擬少領(郡司代理)膳東人
築城郡少領佐伯豊石
上毛郡擬少領紀宇麻呂
下毛野擬少領勇(いさ)山伎美麻呂
京都郡鎮長(軍団の長)小長谷常人
企救郡板櫃鎮大長三田塩籠
小長凡河内田道
などが加わっていた。
持統天皇以前に存在が確認される神社は宇佐宮ではなく香春神社であるとされている。
確実に古代から神社として成立していたと実証される神社は全国の中でも極めて数が少ない。
辛国息長大姫大目命神社
忍骨命神社
豊比咩命神社(古くは三ノ岳の東麓 阿蘇熊森に祀られていた)
貞観8(866)年、肥前国の基肆郡や藤津郡の郡司たちと新羅人が対馬を奪う計画が露見した事件がある。
九州の豪族と新羅との密接な関係は9世紀後半でも続いていた。
八幡神とは宇佐八幡宮が聖武天皇の東大寺大仏造立を援助したから八幡神は採鉱、鋳造の技術を司る鍛冶の守護神であるという説がある。
八幡神は鍛冶・産銅を司ることから、銅の産地田川郡の香春を支配する神ではないかという説がある。
赤村
赤村はもと吾勝野と呼んでいた。
上古吾勝山(岩石山)に吾勝尊(天忍穂尊の別名)が天降った故事がある。
我鹿八幡神社所伝古神楽歌 4 褒里彦曽褒里媛 6 曽褒里彦
遠賀川の記紀伝承 7
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水巻町
立屋敷 島門の駅館 日本武尊の御旅ありし
朳(えぶり) 彦火々出見尊釣を垂れ玉ひし地なるか故に餌振と云ひしを後世朳と書けり。
古賀嶽 豊前坊ともいう。
八剣神社
日本武尊砧姫 月読尊も祭る。
砧姫の社は西北四町橘屋敷にあった。
長門国彦島は彦火々出見尊の海の宮より上り玉ひし所
遠賀川式弥生文化は遠く近畿、伊勢湾にも及んでいる。
土蜘蛛は「身短くして手長し、侏儒(小人)に似たり」。
糸田町
盆地性気候のため霧発生が多い。
筑豊は雷が多い。
斉明天皇(西暦655〜661)の時代、この地に来た太連大伴金村が、人々の水の乏しさを嘆くのを聞いて、神々に祈り、鉾を地に突き刺したところ、こんこ んと水がわき出た。これが泌泉でこのお蔭で水田も枯死を知らず、豊作が続くところから、「いとよき田」「いと田」と呼ばれるようになった。
小字 宮床村 田道
糸田村 金村
琴ヶ原
そがのうら
乙
琴岡原
空町
町内から銅矛10本出土。
弥生時代中期の丹塗りの壺、糸田式銅戈。
金村神社 大伴金村を祭る
木実神社 五十猛命を祭る
北九州市の高槻ムラは6キロ平方メートルにも及ぶ広大なムラで、石器製造販売センターだった。
八幡東区の高槻、八幡西区の香月は弥生時代の北九州工業地帯であった。
田川市の金国は辛国里の転化という。
豊前市内の加目久也里は加自久也の誤りとして和名抄の炊江郷にあてる説がある。