日本武尊の足取り |
九州でのヤマト武尊の足取りを解説します。
香月家文書
遠賀郡水巻町
日本武尊(幼名小碓)が筑紫に渡るために岡湊に船を進めてくると、西の峰から大声で航路を教える者あり、この声に従って無事に西港に船を付けることが出来た。この峰を於羅比(おらび)山という。
今の豊前坊山で、72mです。
喚山[おらび山]は、古くは、官道:遠賀川の渡し口であった。もと館屋敷と書く。のちに立屋敷と誤記された。延喜式にも島門の駅館と出ている。
(後世の談、平家が壇ノ浦で敗れ、落人が、豊前坊山、古賀岳の山鹿透遠の端城にたどり着く。下から呼んでも応えず、端城も落ちていた。喚山という)
六岳神社社記
成務天皇の時、室木の里長・筑紫国造・田道命の子孫長田彦(小狭田彦)と云う者。大神の神勅を蒙り、崎戸山上に神離(ひもろぎ)を建つ。これこの神社の始めなり。
全国神社名鑑では、六嶽神社(鞍手町室木)、延喜7年907、神紋を菊花と定めた。
この菊は、熊本県菊水町江田船山古墳の大刀象嵌にも出てきます。大刀は、171年の作とみられます。鞍手の物部都市牛利も菊です。
香月家文書
鞍手町
日本武尊への功績で、筑紫の氏の上(筑紫国造)に任じられ、その住居が香月に在ったので、後になって、香月の君とも称され、香月氏の始祖とされた。勝木氏とも書く。小狭田彦の4世孫・賀那川王は、新北、及び室木の神官に任じられた。(賀那川:金川)
新北はか六郷は、物部氏の先祖で、六人部連祖・妙斗米といい、尾張氏と対になっています。六人部は、(むとりべ)と読む。江田船山銘文の典曹人无利弖(む とりて)です。无は、八卦のみに使われる漢字です。弖は、物部の先祖・宇摩志摩手(うましまで)の手を借りています。升違いの斗。難斗米は、神功皇后が、 暴露しています。
○引用○http://www.sysken.or.jp/Ushijima/voyage11.htm
筑紫国造の田道命の子孫の長田彦 物部氏の痕跡 六ケ岳への宗像三女神の降臨 もどる (白鳥伝説、上巻p92-107、谷川健一著、小学館ライフ゛ラリ-、1997年より)
六ケ岳に は宗像の三女神が降臨したという伝承がのこっている。『筑前国風土記逸文』には次の記事がある。「西海道の風土記に曰はく、宗像の大神、天より降りまし て、埼門山に居ましし時、青(に)の玉を以ちて奥津宮の表に置き、八尺(に)の紫玉を以ちて中津宮の表に置き、八咫の鏡を以ちて辺津宮の表に置き、此の三 つの表を以ちて神のみ体の形と成して、三つの宮に納め置きたまひて、即て隠りましき。因りて身形の郡と曰ひき。後の人、改めて宗像と日ふ。其の大海命の子 孫は、今の宗像朝臣等、是なり。云々」ここにいう埼門山は、岩波古典文学大系(以下、岩波古典大系本)の『風土記』 の頭註に、福岡県宗像郡の北端、鐘ノ岬とされている。『地名辞書』にも、崎門山は鐘ケ崎(鐘崎) の古名であろうとしているが、『鞍手町誌』には六ケ岳を崎戸山に比定している。山麓の鞍手町室木にある六ケ岳神社の祭神は宗像三女神を祀り、土地の人は三柱様と呼んでいるそうである。
宗 像神社文安元年(一四四四)の縁起には「三処大菩薩最初御影向地の事、室貴六嶽に御著有り、神輿村に著き給ふ、この村において、はじめて天神威を輝かせら る」とある。室貴は今の室木のことである。また永禄九年(一五六六)の棟書に「宗像郡室木村第二宮云々、室木は初め宗像郡の内なり」とある。これによって も、室木がはじめは宗像郡に属していたことが分かり、六ケ岳と宗像女神の縁由がおしはかられる。
こ の室木の里長に長田彦という者がいた。小狭田彦とも書く。「六ケ岳神社記」によると、筑紫国造の田道命の子孫の長田彦が、大神の神勅をこうむり、崎戸山上 に神籬を建てたとある。その子孫はながく神官をつとめたといわれる。その長田彦(小狭田彦)について「香月文書」には、本名を常盤津彦命といい、ニギハヤ ヒの子の天照日尊の十五世の末裔としている。天照日尊と宗像の中津宮の市杵島姫命との間に生まれた御子神のあとといわれている。直方市大字下新入字亀丘の剣神社の 祭神の倉師大明神を祀るのは、田道命の裔孫の長田彦と社伝にある。室木の六ケ岳神社は六ケ岳の西に位置し、下新入の剣神社は六ケ岳の東側に位置している。 ところで「香月文書」をみると、ニギハヤヒを祖とする小狭田彦の系譜に可美日子とか忍坂埴生とか埴安とか椎日下とか、物部氏の系譜にあらわれる人名を思わ せるものがあちこちにあらわれてくる。香月氏は木屋瀬の北にいた中世の豪族である。したがって、その文書をそのまま信ずるわけにはいかないにしても、古い 伝承を反映している点もあると考えられる。とくに椎日下の名は物部氏が河内の日下に蟠踞していたことを示唆するものとして注目に値する。また「香月文書」 には、小狭田彦の四代の孫の天賀那川王は新北ならびに室木の神官に任ぜられたが、別に香月家の本家を継ぎ、香月の君となったものがいる。その養嗣子の倭男 人は磐井の乱のとき、物部鹿鹿火をたすけてたたかい、磐井町子の北磐津をとらえて奴僕にした、とある。
この六ケ岳の南麓、犬鳴川に沿うあたりの鞍手郡宮田町大字磯光字儀長に天照神社が 鎮座する。祭神は天照国照彦天火明櫛玉餞遠日尊、すなわちニギハヤヒの命である。ニギハヤヒを祀る天照御魂神社がこの鞍手郡の六ケ岳のふもとに鎮座してい たことを現地で知ったのは、大きなおどろきであった。社伝によると、垂仁帝の十六年、鞍手郡宮田村の笠木山(現在宮田町の笠置山、四二五メートル) にニ ギハヤヒの神が降臨したという。
下記は、http://kamnavi.jp/mn/monomapnisi.htm 神奈備より抜粋//
剣の神社の多いこと…そして熱田神社も本当にあります…
筑前糟谷 熊野神社「饒速日命、速玉男命、伊弉冉命、事解男命、宇麻志麻智命」糟屋郡 古賀町 大字筵内 1575
筑前鞍手 剣神社「倉師大明神」(直方市下新入字亀岡)倉師は高倉下のくらじ 白108 『白鳥伝説』上140
筑前鞍手 古物神社「布留御魂神社、剣神社」八幡宮 鞍手郡 鞍手町 大字古門 1237 『白鳥伝説』上138
筑前鞍手 熱田神社(元剣神社)「天照大神ほか」鞍手郡 鞍手町 大字 新北 1565 『白鳥伝説』上138
筑前鞍手 八剣神社「日本武尊」鞍手郡 鞍手町 大字中山 1558(字尾山)『白鳥伝説』上138
筑前鞍手 八剣神社「日本武尊」鞍手郡 鞍手町 大字小牧 1324 『白鳥伝説』上138
筑前鞍手 八剣神社(鞍手郡 鞍手町 大字木月)『白鳥伝説』上138
筑前鞍手 鞍橋神社(鞍手町長谷)『白鳥伝説』上144
筑前鞍手 天照御魂神社「天照国照彦火明櫛玉饒速日尊」鞍手郡 宮田町 大字磯光 267 笠置山に饒速日命の降臨伝説
筑前鞍手 天照御魂神社上宮 笠城神社「饒速日命」鞍手郡 宮田町 大字宮田 1903
筑前鞍手 笠城権現神社「饒速日命」鞍手郡 宮田町 大字宮田 1853
筑前鞍手 天照御魂神社中宮 穂掛神社「饒速日命」鞍手郡 宮田町 大字宮田 2016
筑前遠賀 高倉神社「大倉主神、莵夫羅姫命」遠賀郡 岡垣町 大字高倉 1113 大倉主神は高倉下のこと 白115
筑前遠賀 岡湊神社(高倉神社の下宮)「大倉主命」遠賀郡 芦屋町 船頭町 12-48 『白鳥伝説』上148
筑前遠賀 八剣神社(遠賀町今古賀)『白鳥伝説』上148
筑前遠賀 埴生神社「布津御魂神合祀」中間市 大字垣生 字八広 426
筑前遠賀 十五社神社「布留大神」中間市 大字下大隈 字村前 1175
筑前夜須 白木神社「天照國照彦」甘木市 上秋月 2408
筑前嘉穂 馬見神社(嘉穂町大隈)『白鳥伝説』上151 嘉穂町大字馬見1594?
筑後御井 赤星神社「天津赤星=筑紫弦田物部の祖」久留米市 高良内町 759(坂口)、妙見社 白210 『白鳥伝説』上150
筑後御井 高良大社「高良玉垂命、物部胆咋連?」久留米市 御井町 1 『白鳥伝説』上107 高良玉垂命は饒速日命との説によりここに入れた。しかしこの地域の高良神社の祭神は武内宿彌が多い。
筑後三瀦 石上神社「十種神寶」大川市 大字下牟田口 1
筑後三瀦 高良玉垂神社「高良玉垂命」三潴郡 三潴町 大字田川 417
筑後三瀦 高良玉垂命神社「高良大神」三潴郡 城島町 大字楢津 943
筑後三瀦 高良玉垂神社「高良玉垂命」三潴郡 三潴町 大字田川 417
筑後三瀦 高良玉垂命神社「高良玉垂命」大川市 大字郷原 158-1
筑後三瀦 伊勢天照御祖神社「天火明命」久留米市 大石町 132 (速水)『日本の神々』210 『白鳥伝説』上150
筑後御原 媛社神社「媛社神=饒速日命、織女神」(磐船神社、棚機神社)小郡市 大崎 1 『白鳥伝説』上104
筑後御原 福童神社「天照国照彦火明命」福岡県 小郡市 福童 846
筑後御原 福童神社「天照国照彦火明命」福岡県 小郡市 大崎字東 白213
豊前京都 大原八幡神社「大原足尼命、饒速日命、誉田別命」京都郡 苅田町 大字新津 字恩塚 1427
豊前京都 白庭神社「天照國照彦天火明櫛玉饒速日命」 京都郡 苅田町 大字与原 字御所山 868
豊前京都 若宮八幡神社 京都郡 勝山町 大字宮原 字上原 285
豊前京都 大原八幡神社 京都郡 勝山町 大字大久保 字宮畑 3015
豊前京都 八雷神社 行橋市 大字長木 字宮ノエン 758
豊前京都 大原八幡神社「饒速日命」 京都郡 苅田町 大字新津 字恩塚 1427
豊前田川 英彦山神宮「天火明命」 田川郡 添田町 大字英彦山 1
豊前田川 高住神社 「天火明命」 田川郡 添田町 大字英彦山 27
豊前田川 八幡神社 田川郡 大任町 大字今任原 3124