2012年の開示、兆候 |
アセンションとは…今生、過去…すべての転生をリバースするのだろうか。
生きながらにして死ぬことと…得たり。自我の死滅…魂はずっと観察し続けています。
ブログを終え、タイムラインを統合し、寝ようとしましたが、またスイッチが入ってしまいました。
今日、本城方面から戻ってくる時、高速で見える山々について、知りたくなりました。主人にしきりに聞いていました。
高速を降りて、篠崎八幡が見えました。
神社とは…本当に
12日のブログの記事をまたまた思い出していました…
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豊前小倉の篠崎八幡神社に、次のような言い伝えがあります。
資料2 ホームページ 小倉篠崎八幡神社由緒書より
その後、神功皇后が三韓を攻め、凱旋して筑前国宇美で皇子(後の応神天皇)をお産みになった。
翌年、穴門の豊浦宮に向かう途中、鷹尾(高尾)山にさしかかると、山頂の大石に皇子をたたせ、遥かに長浜や文字ヶ関(門司)から穴門の方を望み、「穴門は近し」といわれたという。
敏達天皇十二年(584年)に勅命によって、この故事に基づき鷹尾(高尾)山の麓の朝倉谷に、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀り、葛城小藤丸を住まわせて祭祀に当たらせ『篠崎神社』とした。
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この中の…葛城小藤丸という人物。
八幡にも葛城王朝なる場所があったのか…素朴な疑問から。
ご存知のように、ここのところ、ずっと葛城氏、鴨氏に…導かれています。
役小角も藤原宮子も加茂の一族。私の実父の系譜も。
葛、国栖、土蜘蛛という地の神々にも教えてもらいました。
もちろん龍神、龍女ネットワークに繫がって。
さて、槻田地区の地名などを見ていました。北九州市の地名は本当に情報が乏しい…
槻田に昔、葛城城なるものがあったそうです。今は痕跡もないようですが…
蒲生ー槻田ー到津ー篠崎ライン 葛城小藤丸とは…葛城の始祖であるとは、12日のブログでもあげています。
葛城 藤丸と小藤丸は葛城襲津彦の末裔だと伝えられています。葛城襲津彦とは、古代豪族葛城氏の祖として『記紀』に記されています…
(加茂氏、鴨氏、葛城氏などについては、この1週間、ずっとずっと辿っています。)
それでこの八幡地区の古代のエネルギーを感じているところであります。
八幡ーヤハダですもの。秦氏の影響が大きそうです。
この地域の特質についても書いています。
秦氏、賀茂氏、藤原氏との関係、光と闇についても、感じることを。
今日、こんなブログを発見し、1行だけ、見つけました。
http://ameblo.jp/ekkyou/entry-11004903027.html
皇統モデルは葛城王朝 白村江敗戦後論⑨http://blog.goo.ne.jp/ekkyou41
北九州市八幡西区香月の葛城王朝の地、手前が葛城山、後方が金剛山、この記事を見て、えええ今日、近くまで行ったじゃん。とびっくり!それから、主人の父が元気だったころ、香月の鉄工所に仕事でついていってた!と彼のスイッチ起動。
金剛山(562m)
【前書き】
金剛山は、北九州の皿倉山と福智山を南北に結ぶ縦走路から西に突き出た山です。尺岳から西へ四方越を経由しても行くことが出来ます。
登山口は馬場山、金剛、笹田等、幾つかあるようです。
本城からの帰りに高速道路でしきりに気になった山だと思います。まさに…
光照寺遺跡 弥生時代の環濠集落 八幡西区 香月西
それから、それから…今日訪れたエリア、豊山八幡付近については…
神功皇后にまつわる記述で…引用記事から。
神功皇后は、東の門の向津から洞海湾(洞の海)へ入りました。
仲哀天皇は、西の門の山鹿岬から古遠賀湾へ入りました。
目的地は、神武天皇の旧都筑紫岡田宮で、そこで合流しました。
よって合流地点=「伊都国」ということです。→到津のこと
3.穴門、豊浦宮、周芳の沙麼浦
また、引島(彦島)の位置は固定されていますから、文章上、さばの浦は豊前穴門豊浦宮の西岸になります。
ということは、周芳のさばの浦ですから、周芳=周防とは、北九州市八幡・小倉・門司辺りです。
タケミカヅチに敗れたタケミナカタは、周防に居たと記述されていますから、関門海峡を支配する神=伊都国の官ということになります。
http://44051510.at.webry.info/201202/article_14.htmlでも以下のように。
洞海湾で「諏訪」 の地名は、
・ スペースワールドの東側、諏訪
・ 穴生(あのお) 2丁目 鷹見神社は「諏訪山」 にある。
景行紀 神夏磯媛の「周芳の娑麼」 ・・・・ 神夏磯媛は洞海湾の人か
仲哀紀 熊鰐の「周芳の沙麼」の「周芳」 はスペースワールド東の諏訪である。
諏訪の海 は長野県の諏訪湖ではなくて、洞海湾の諏訪だ。
枝光八幡宮 (八幡東区諏訪2丁目1−5) の祭神に武御名方命がいる。
あれれ、今日、昼のビジョンで出てきた朽網の○さん、そういえば枝光にゆかりが深いって言ってた…(義経、安徳天皇が気になって仕方がない人、4月19日の彼女とのセッション後の覚醒夢で、4つの雷紋&十字ーケルト十字を見た…
それで私たちは、四国行きを決めたんだった。この流れ…あまりにもシンクロ、自分でもドキドキ。
またまた…以下のサイトを見つけてやはり。ここでも安徳帝。今日のビジョンともすべて符号。
謡蹟めぐり 大原御幸1 おはらごこうwww.harusan1925.net/1208.html - より
しかし、ここも安住の地ではなく、遠賀川河口の山鹿城(芦屋町)に落ちた。城主山鹿秀 遠と香月の庄(八幡西区)香月氏とは共に平家を助けたが、山鹿城へも惟義の軍が 押し寄せると聞き、安徳帝と平家一門は小舟に乗って夜もすがら響灘を東へ向かい、 豊前の ...
香月氏は平家を助けたんだ…(平家は弁財天系)初めて知りました。
また他の資料では…
木屋瀬町誌http://44051510.at.webry.info/theme/eba18703d7.html
(余談ですが、息子の担任はこの春、木屋瀬小学校より赴任されてきました!)
P3
香月家譜によれば、
熊襲の大将である火国の川上梟師の弟の江上梟師が金剛の丘に居た。
日本武尊は黒崎より上陸して笹田の小狭田彦とともに黒川を渡り、熊襲の軍を屠る。
寿福寺縁起書に、
仲哀天皇亦與 皇后、将 討 熊襲 之時至 自 岡湊 而鎮魂焉
とあり、この地に来られたことを物語る。
P24
〈鞍手郡野面村八所大明神並びに同社境内にあった寿福寺の古文書〉
昔景行天皇の御躬親豊国の土賊を誅せんと欲し、周芳の沙磨の津を解纜して筑紫に幸し、到って香月君の祖小狭田彦の方に住み給う。
而して宗形県主至る。
一日天気夙に起き四方佳景の庄商の丘上に映照す状を眺望し、小狭田彦を召して曰く、嗚呼好哉彼野中の丘は。朝日の直刺し夕日の暮愛すべき丘なり。朕彼地に臨幸して親しく鎮魂を為さんと欲す、汝宜しく朕が為に其の設有るべし。
是に於て小狭田彦寺を其の丘に建て竜尾扈従して鎮祭す。
(中略)
小狭田彦を以て鞍手の県主と為し且つ聞の田五十丁を賜う。
※ この史料によれば、
遠賀郡宗像郷は楠橋・真名子・馬場山・野面のあたり。
祖小狭田彦も土蜘蛛か…そうでないのか…
八幡市史
P395
福岡縣地理全誌 枝光村
中臣
村の西北九町にあり。
此所昔は入海にて中臣と云る小嶋あり。
延寶、天和の頃、埋めて神田とす。
神功皇后此地を過させ玉ひ、海路の安穏を祈り、中臣烏賊津臣をして、道祖神を祭らしめ玉ふ故に、中臣と名くと云。
今、中富とかくは誤なり。
今も中臣神社あり。
ここでスイッチ!
このことを昨日の夢で見たのだといま、わかった!昨日の夢の鳥がつく場所ー烏賊だった!名前だったんだ。ちょうかい、と思ってた。なんて読むんだろう。それから藤原ー中臣!調べてみよう。
P396
福岡縣地理全誌 枝光村
熊本山
村の東にあり。
即ち諏訪山あり。
岡縣主熊鰐百枝の賢木を抜取て、上枝に白銅鏡を掛け、中枝に十握剣を掛、下枝に八尺瓊を掛、仲哀天皇を迎奉りし事、日本紀に見えたり。
賢木は即此山の榊なりと言傳ふ。
http://homepage2.nifty.com/hpsuiren/sizoku/kazuragi.htmより
なんか、鳥肌がたってきました。今、夜中の3時。
紀の神武東征譚は、その饒速日命の天神降臨を取り込んで書かれており、神武の妻子を饒速日命に奪回するなら、なぜ欠史八代の葛城王朝が置かれたかは、それ が饒速日命皇統史であったからで、そこに倭国皇統の発生があったことによる。その葛城王朝の地は北九州市八幡西区の香月の地で、杉守神社のある岡が葛城山 で、その神社の境内下から八個の金銀銅の卵形の玉が戦国時代に出現し、騎馬民族特有の卵生神話を伝える。それを伝える「香月家譜」を先年、私は、実見させ ていただいた。それは今、香月家の母系の井原家に所蔵されている。それに「松野連〈倭王〉系図」を重ねるとき、井原は倭原で倭氏の本家を意味し、飯塚は井 塚で、倭塚となり、私の云う南船系初期倭王墓となろう。このことは委奴国に天神降臨があり、さらにその上に神武東征が重なるのを見るなら、倭(やまと)は 神武東征に遡る列島王権の争奪の興亡地であったことを知るのだ。その飯塚近くに、卑弥呼が生まれたという伊川の地名があるのは偶然とは思えない。
六つは、その饒速日命が垂涎した倭(やまと)の地に、原・委奴国があったが、饒速日命の天神降臨によって追われ、博多湾岸で委奴国を再興したのが「松野連 系図」から幻視できる。それこそが金印国家・委奴国にほかならない。これが九州王朝・倭国王統で、「呉の太伯の後」が南船系王統を営む陰で、筑豊で饒速日 命に始まり、それを簒奪した神武の倭国皇統が胚胎し、次第に豊前を支配下に治めた。それが「隋書俀国伝」に記された秦王国で、その帝記に出現した倭国にほ かならない。(以上、抜粋引用終わり)
木屋瀬町誌http://44051510.at.webry.info/theme/eba18703d7.html
P3
香月家譜によれば、
熊襲の大将である火国の川上梟師の弟の江上梟師が金剛の丘に居た。
日本武尊は黒崎より上陸して笹田の小狭田彦とともに黒川を渡り、熊襲の軍を屠る。
寿福寺縁起書に、
仲哀天皇亦與 皇后、将 討 熊襲 之時至 自 岡湊 而鎮魂焉
とあり、この地に来られたことを物語る。
P24
〈鞍手郡野面村八所大明神並びに同社境内にあった寿福寺の古文書〉
昔景行天皇の御躬親豊国の土賊を誅せんと欲し、周芳の沙磨の津を解纜して筑紫に幸し、到って香月君の祖小狭田彦の方に住み給う。
而して宗形県主至る。
一日天気夙に起き四方佳景の庄商の丘上に映照す状を眺望し、小狭田彦を召して曰く、嗚呼好哉彼野中の丘は。朝日の直刺し夕日の暮愛すべき丘なり。朕彼地に臨幸して親しく鎮魂を為さんと欲す、汝宜しく朕が為に其の設有るべし。
是に於て小狭田彦寺を其の丘に建て竜尾扈従して鎮祭す。
(中略)
小狭田彦を以て鞍手の県主と為し且つ聞の田五十丁を賜う。
※ この史料によれば、
遠賀郡宗像郷は楠橋・真名子・馬場山・野面のあたり。
http://homepage2.nifty.com/hpsuiren/sizoku/kazuragi.htm
そして…ふと思いました。神功皇后とは…もしや、葛城に関わり深い姫だったのではないだろうか。
それで検索すると、やはり…そのようでした。葛城の女たち…より。homepage2.nifty.com/hpsuiren/sizoku/kazuragi.htm -
私が知らなかっただけなのね…これについての情報はたくさん出ています…
葛城氏の女たち
(葛城)・・・畿内・大和の豪族。武内宿禰を祖とする。応神朝(河内王朝)に外戚として権力をもったが、雄略天皇が葛城円大臣を攻め滅ぼしたことで勢力を失ったらしい。
葛城高額媛【かずらぎのたかぬかひめ】
.<葛城高額比売(古事記)>
父:多遅比多訶
母:菅竈由良度美
所生の皇子女
気長足姫(仲哀天皇后)、 虚空津比売、息長日子王
*気長宿禰王の妻となり、仲哀天皇后・気長足姫(神功皇后)を生みました。
.系譜上では、天日矛命の末裔で、父は多遅比多訶、母はその姪菅竈由良度美とされており、葛城氏との縁はありません。
.しかし、神功皇后朝において、葛城襲津彦が将軍として活躍したことは彼女の縁かとも思われます。
九州超古代の霊性につながって、感じています…
今日、訪れたエリアばかりです。しかもそれと、知らなくて行った場所ばかり…
今は何がおきてもおかしくない、そんな時ですもの。
でも、なんだか、疲れました〜今から寝ます。(ほぼ4時)
補足…
中臣烏賊津使主【なかとみのいかつおみ】http://kotobank.jp/word
中臣氏の祖とされる伝説上の人物。『日本書紀』の神功皇后と允恭天皇の時代に名がみえ,『続日本紀』は伊賀都臣と記して中臣氏の先祖とする。神功皇后が神意を問うたとき,神託の判定者として召され,顕現した神の名をただす。神と人の仲介者を意味する中臣の名にふさわしい功績である。また允恭天皇のときには舎人としてみえ,天皇の命を受け,宮中へ入ることを拒否している女性を迎えるのに成功する。この両者が同一人物とすると,その間7代二百数十年の隔たりがあるので,子孫が先祖と同じ名を名乗ったとも考えられる。しかし5代の天皇に仕えた武内宿禰の例もあり,伝承成立の経緯は別として,往時は同一の人物として認識されていたとすべきだろう。
(神田典城)
また別のサイトでは…http://abekawamoti.at.webry.info/200506/article_6.html
中臣氏の系図をたどると「中臣烏賊津臣(いかつおみ)」という人物がいる。この人物は「神功皇后紀」や「允恭紀」に出てくる人物なのだが、時代が隔たって 出現することから伝説的人物と思われる。この烏賊津臣は、あるいは伊香津臣命とも表記されたり、雷大臣ともいわれる。伊賀国の名前の由来となった「伊賀都 臣」もまたこの人物のことと思われる。そして「伊香」も近江北部の余呉湖周辺にある伊香郡の名前と関係している。
この伊香郡は東に息長氏の地盤である湖東地域を、西には和邇氏の地盤である湖西地域に挟まれている。息長氏と和邇氏については様々な研究から関係が深い氏 族とされており、それらに挟まれた伊香もまた関係深い地域であることは容易に想像できる。おそらく中臣氏は継体天皇が大和入りした時に随伴した豪族ではな かったか?さらにそのルーツは息長氏かあるいは和邇氏に繋がっているのではないだろうか?
前に春日の神が春日氏=和邇氏から藤原氏に乗っ取られたことを記述したが、それを可能にしたひとつの理由には和邇氏と中臣氏が古い時代から関係があったと いうことが憶測される。同族とまではいわないが中臣氏は和邇氏配下(あるいは息長氏配下)の氏族ではなかったかと思っている。
ところでこれら氏族は「天日矛伝説」との結びつきが伺える。それはむしろ中臣氏に濃厚で、中臣烏賊津臣が仕えた神功皇后などは「天日矛」の末裔である。そうなると中臣氏は百済系と言うよりもむしろ新羅系といった方がよいかもしれない。
天児屋根命か武甕槌神かの別名とみられる速経和気命(『常陸国風土記』に見えて中臣鹿島連の祖・片岡大連が奉斎したと伝える)も雷神に通じます。これらの事情があるのだから、その子孫となる中臣氏の系図にも端的に雷大臣命が見えますが、この者は仲哀・神功皇后紀の中臣烏賊津使主(イカツオミ)にあたります。その五代祖先にも伊賀津臣命の名が見えますが、ともに「雷」を名前にしています。
〜感想〜
だから…雷紋だったんだ〜