●空海の秘密 秦氏との関わり3/4 |
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私見だが、通説では、空海の虚空蔵求聞持法の師を勤操だというのであるが、私は護命だと確信している。
その根拠は、勤操はたしかに道慈にはじまる大安寺の虚空蔵求聞持法伝持の一人ではあるが、一方、三論(大乗中観派の宗学)の論学の人で、大安寺に関係の深 い吉野比曽(山)寺の「自然智宗」(神叡にはじまる虚空蔵求聞持法修行者のグループ)とのかかわりが見えないところから、勤操は虚空蔵求聞持法を含め仏教 というインド的価値世界を総合的に空海に教えた人であるが、求聞持法を空海に直接伝授した人ではないと見るのが正しいだろう。
そ の点護命は、元興寺(法相・倶舎)にありながら比曽(山)寺の「自然智宗」(神叡の法流)に連なり、月のうち上半は吉野の比曽(山)寺を中心に虚空蔵求聞 持法を修練し、下半は元興寺で法相・倶舎の論学につとめた人で、空海はその時期、この護命の行学法を仏道修学の範としていたと思われるふしがある。おそら く空海の求聞持法と法相の実際的な指南役はこの護命であったにちがいない。『性霊集』には、84才まで生きた護命の長寿を寿ぐ二編の詩が収められている。
吉野、比曽(山)寺跡、世尊寺 大安寺
ときに、護命が行じていた比曽(山)寺の「自然智宗」といい、虚空蔵求聞持法といい、空海が成就した室戸崎の洞窟での虚空蔵求聞持法といい、「秦王国」の山岳信仰や宇佐地方のシャーマン法蓮の虚空蔵信仰と酷似している。
吉野比曽(山)寺の「自然智宗」も、実は秦氏ではなかったか。吉野や宇陀方面には紀伊に入った秦氏が勢力を伸ばしている。「秦王国」から吉野に虚空蔵菩薩 の信仰がもたらされても不思議はない。「自然智宗」の祖神叡は、道慈とともに高徳を賞された法相の学僧であるが、渡来系の人といわれている。空海がのめりこんだ虚空蔵求聞持法は秦氏系の僧や修行者が主導していたのではないか。
ついでながら、空海が私費留学生として入唐留学する際にも、勤操と護命などの秦氏系の人が陰で支えた可能性について付記しておきたい。
空海の入唐留学はあわただしかった。
周知のように、空海は延暦23年(804)5月12日、一年遅れの第十六次遣唐使船の第一船に乗り難波ノ津から船出した。
遣唐使団という国家的な大デリゲーションに加わるには、僧侶の場合国家認定の官僧でなければならない。官僧になるには東大寺で具足戒を受戒し、国家仏教の役所である僧綱所から度牒(身分証)を受けなければならない。空海はまだ沙弥(私度僧)の身分であった。
空海が東大寺で具足戒を受けた時期には諸説あるが、一般によく言われている延暦23年4月7日説が、遣唐使船乗船まであと1ヵ月というあわただしさこそ空海の入唐風景に似合っているという理由でも有力でかつ妥当と言っていい。
具足戒の受戒、度牒の拝受、留学生(るがくしょう)の資格取得、在唐20年の資金・持参品準備、そして乗船・船出。これを1ヶ月で行ったとすれば、否仮にそうでなくても、空海の入唐留学には相当の協力者が周囲にいたと考えるのが至当である。
肥前田ノ浦旧地、空海渡唐碑 東大寺戒壇院
私見だが、留学生の資格取得と在唐20年の資金・持参品準備には、勤操のはたらきかけによる秦氏要人の援助があったと考えられる。
勤操が秦氏の要人とともに、留学生資格取得の許可を、性急に朝廷にはたらきかけたことは想定に価する。あるいは秦氏の要人が、相当な金品を内密に使ったかもしれない。とにかく空海という逸材への期待に花が咲くかどうか、急を要することだった。
ある説によれば、当時南都仏教界では法相宗勢力の増大に比べて三論宗の宗勢が衰えていたため、三論の有力者であった勤操が三論宗の人材補充の目的で空海を 抜擢したという。仮にそうだったとしても、それはあくまで表向きの理由であって、当時の空海には三論の「空」の論理学よりも法相の精神分析学や華厳教学や 『大日経』や梵字・悉曇に関心が集っていたことは想像に難くない。
秦氏の要人らは同族系の勤操から要請を受け、在唐20年に必要 な金品を用意したにちがいない。空海はたった2年足らずで在唐20年の留学義務を破り帰国するのだが、帰国に際して、新訳の密典・儀軌・梵字真言讃をはじ め詩文・書の書籍や絵図や法具のほか筆や墨に至るまで、多大な出費をして用意した。密教の秘奥を特例の抜擢で伝授してくれた師恵果和尚にも、青龍寺の住院 にも、在唐の恩師般若三蔵にも、寄宿先だった西明寺にも、篤志の金品を特段に納めたことであろう。出国にあたって、その担当の役所・役人にも相当な賂を用 意したに相違ない。交友を重ねた文人・友人らと盛大な別れの宴も催した。空海の周辺でそうした莫大な金品を短期間で準備できるのは、秦氏系の人たち以外に は考えられない。
ちなみに空海のような私費留学生の場合、朝廷から餞別として絁(あしぎぬ、紬に似た絹の織物)40疋(=80反 (1反は幅約1尺(30㎝)×長さ約3丈(9m)×80)、綿100屯(1屯=150gの100倍、15㎏)、布が80端(80反)下賜されるのである が、それらは彼の地で外交儀礼的交換の品として使うためのもので、長期間滞留する留学生はそれだけではとても足りず、自分の努力で相当な金品を調達しなけ ればならなかった。
また、急を要した東大寺での具足戒の受戒と度牒の拝受には、僧綱所に護命が根回しをしていた可能性がある。
護命は、承和元年(834)84才で示寂するまで、僧綱所にも長くかかわった。大同元年(806)律師に任じられ、最澄の大乗菩薩戒による戒壇独立の動き には僧綱所の上席として反対したことが知られている。晩年、僧綱所では最高官の僧正に上りつめた。国家仏教の監理庁たる僧綱所で上首をつとめることは、学 徳兼備である上にある種発言力や政治力も持ち合わせていなければならない。おそらく護命は律師に任じられる前から僧綱所の幹部候補生として僧綱所にかか わっていたと考えられる。役所的にはそういう気配が濃厚の人である。
空海が東大寺で具足戒を受戒 したのは延暦23年(804)。護命が律師になる約2年前である。護命が僧綱所の上席に対し、空海の具足戒受戒の申請裁可と同時に、度牒の申請と至急決裁 をも要請したであろうことは想定可能である。上席は、護命や勤操の推薦の上、秦氏系要人の協力体制を見て、すぐに案件処理をしたにちがいない。
蛇足になるが、空海の梵字・悉曇(今でいうサンスクリット)の語学力は抜群であった。長安で醴泉寺の般若三蔵や牟尼室利三蔵から学んだことは史料などにも 明らかであるが、実質的に1年程度の学習であれほどのレベルに達するはずがない。まちがいなく渡唐以前にサンスクリットの語学(文法・修辞・字体・発音・ 漢訳・和訳)を学んでいたにちがいない。
では一体、どこの誰について学んだか、空海はこれを明かさなかった。察するに、天平8年(736)に大安寺にきて、東大寺の大仏殿の落慶導師をつとめたインド僧菩提僊那(ボ-ディセ-ナ)のサンスクリットを身近に大安寺で学びとった渡来僧の誰かであったろう。
その時、霊仙もいっしょだったかもしれない。あるいは年齢的に霊仙の方が先に学んでいた可能性もある。この二人は、同じ第十六次遣唐使船で唐に渡り、霊仙 は醴泉寺の般若三蔵のもとに留まり訳語の助手をつとめた。霊仙のかの地における栄進と悲劇的な最期については拙著『空海ノート』をご覧いただきたい。
◇秦氏の稲荷信仰と東寺と空海
松尾大社の開基である秦忌寸都理(はたのいみき、とり)の弟、秦伊呂具(はたのいろぐ)が、和銅4年(711)、深草の地なる伊奈利山(稲荷山)三ヶ峯 に、宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)、佐田彦大神(さたひこのおおかみ)、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)を祀ったのが今の伏見稲荷大 社のはじまりである。
宇迦之御魂大神は稲荷山のある深草の地の守り神で、稲に宿る農耕の神。深草も太秦や(嵯峨の)葛野ととも に、5世紀半ばには秦氏の居住するところとなっていた。この秦氏の稲荷山に立つ伏見稲荷大社と空海が密教化に努めた東寺の間に、秦氏と空海の親和関係を物 語るエピソードがあった。
東寺五重塔 伏見稲荷大社
天長3年(826)11月、空海は高野山造営の多忙をぬって前年成った講堂の建立につづき、東寺にわが国初の自らの設計監理になる密教様式の五重塔(「法界体性塔」)を造るべく建設に着手した。
南都の官大寺にはいくつも立派な五重塔が建ち並んでいるが、一層部分の四角の芯柱を本尊(金剛界大日如来)にみたて、それを中心に柱の四面を背に金剛界四 仏が四方を向いて坐る配置は、東寺の五重塔にしてはじめてであった。塔そのものが大日如来(金剛界)、つまり「法界体性塔」である。
この五重塔の用材を、空海は伏見の稲荷山から調達したのである。一説では、この稲荷山の聖域から木材を切り出したため、それがたたって淳和天皇が病気にな り、朝廷は官寺である東寺の造営にかかわることであったので、その罪滅ぼしとして従五位の下の官位を伏見稲荷大社に与え、天慶5年(942)に正一位を、 応和3年(963)に京の東南の鎮護の神と定めた。
この秦氏の祖霊や稲荷社を祀る伏見稲荷山は、奈良時代から鞍馬山や愛宕山とともに山中修験の聖地でもあった。空海の頃、東寺の密教僧の山林修行の場として使われていた。
空海はすでに故郷の讃岐や大安寺の勤操や元興寺の護命や吉野の比曽(山)寺の「自然智宗」の修行者を通じ、秦氏との縁を深めていた。そしてこの頃には、嵯 峨・淳和両天皇を通じあるいは朝廷の役務を通じ、官寺である東寺の造営別当として、秦氏の人と交わりが充分にあったにちがいない。
さらに東寺の密教僧の山中修験の場として、秦氏系の神職・社家の理解と協力も得ていたであろう。秦氏の側も、嵯峨帝と空海の関係を知っていて、空海には格別に好意的であったと思われる。
伏見稲荷山は、東寺五重塔の造営別当として空海にとって必要不可欠の山であった。空海と秦氏を触媒に東寺と伏見稲荷大社はジョイントされたのである。
東寺と伏見稲荷大社を結ぶ祭礼が今もつづいている。毎年4月下旬の最初の日曜日から5月3日まで行われる伏見稲荷大社の「稲荷祭」である。この祭礼は貞観年間(859~876)にはじめられ、天暦年間(947~957)以後恒例の大祭になった。
御旅所、東寺の東(油小路通角) 伏見稲荷、稲荷祭(神幸祭)
この祭はもともと、5世紀頃朝鮮半島の加羅(伽耶)から渡りきて この山背の地に定住した秦氏の怨霊を鎮め、タタリを除く「御霊会」として行われたという。おそらく秦氏がこの地に根ざすには、人種差別や階級差別や迫害や 搾取の悲哀を味あわない時はなかったであろう。かれらは、未開拓であった山背の盆地を高度な農業技術によって開墾し、潅漑・農業・養蚕などを行い、氏神を 祀り寺を建てた。しかし桓武の平安遷都にともない、艱難辛苦をして開拓した土地を没収されたり、朝廷貴族からは妬まれ、時には失脚・敗着・抹殺の憂目に あった。それでも秦氏は政権の表舞台に立つことなく自重・忍従の身に堪えたのである。
「御霊会」は、平安京の民衆の間に起った魂 鎮めの祭礼である。伏見稲荷山に祀られている秦氏の祖霊のうち「御霊」といわれる怨霊は、しばしば宮中や市中に疫病というタタリをもたらした。民衆は、自 分たちにもふりかかる災いを避けるため、秦氏一族のための「御霊会」を「稲荷祭」に代替してはじめたのである。
弘仁14年(823)正月19日、空海は嵯峨天皇の勅により、東寺を鎮護国家の密教道場にすることを任された。その年の4月13日、紀伊で出会った神の化 身の老人が稲をかつぎ、椙の葉を持って婦人二人と子供二人をともない東寺の南門にやってきた。空海は大喜びして一行をもてなし、心から敬いながら、神の化 身に飯食を供え、菓子を献じた。その後しばらくの間、神の一行は八条二階堂の柴守の家に止宿した。
その間、空海は京の南東に東寺 の造営のための材木を切り出す山を定めた。また、この山に17日間祈りをささげて稲荷神にご鎮座いただいた。これが現在の稲荷社(伏見稲荷大社)であり、 八条の二階堂は今の御旅所である。空海は神輿をつくって伏見稲荷、東寺、御旅所を回らせたのである。
この伝説が、空海と東寺(の五重塔の用材)と伏見稲荷(山)と御旅所をつなぐエピソードである。伏見稲荷大社には明治期の廃仏毀釈まで神仏習合がつづき、荼吉尼天法を修する真言寺院の愛染寺があった。
◇秦氏の製銅・冶金・潅漑・土木技術
天平15年10月辛巳の詔に、
こ こに、天平十五年歳次癸未十月十五日を以て、菩薩の大願を発し、廬舎那仏の金銅像一躰を造り奉る。国銅を尽して象を溶し、大山を削りて以て堂を構へ、広く 法界に及ぼして朕が知識と為し、遂に同じく利益を蒙らしめ、共に菩提を致さしめむ。それ天下の富を有つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり。この富勢を 以て、この尊像を造る。事や成り易き、心や至り難き。
・・人情に一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らむと願ふ者有らば、恣に聴せ。
とある。聖武天皇が発した東大寺大仏建立の詔である。
天平17年(745)にはじめられた東大寺の廬舎那仏の鋳造には、73万7560斤(442536kg)の塾銅(にぎあかがね、精錬銅)が使われた。この 大量の塾銅を供出したのは秦氏の勢力下の(先に触れた)豊前国「秦王国」の香春山と長門国の榧ヶ葉山(採鉱)と大切谷(精錬)(後の長登銅山)の技術者集 団だった。
豊前・豊後に展開した渡来系辛嶋氏・大神氏の技術者たちは宇佐八幡の鎮座する宇佐の地に住していたが、銅をはじめとする金属の鉱床を求めて、親和の間柄であった筑前の海洋氏族宗像氏に導かれ、長門・周防の地へ、さらには日本海沿岸へと移動していた。
宇佐の秦氏は銅の供出で大仏造顕に協力したばかりでなく、「我、天神地祇を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、我が身を草木に交えて障ることなくさ ん」との宇佐八幡の神託を発し、莫大な資金と資材と人夫を要するためこの国家事業を聖武天皇のわがままだと反発する朝廷貴族を押さえ込んだ。
この褒美として、大仏開眼供養会の際には聖武上皇や孝謙天皇などとともに宇佐の八幡神が輿に乗って大仏殿に入御し、八幡神には封戸(ふこ)800と位田(いでん)60町が贈られ、後には東大寺のすぐ東の手向山に八幡神を分社して祀り、東大寺の守護神としたのである。
ときに、空海が指導監督を行ったとされる潅漑用水や港湾水利の修築にも、秦氏の技術者が関与していた可能性がある。
まず、讃岐の満濃池であるが、空海の実家佐伯氏が領する真野の水田は、東方の中讃に展開する秦氏一族の潅漑技術の影響を受けて、早くから条里制を取り入れていたくらいで、満濃池の水利開発に秦氏の技術者がかかわらないはずがない。
故郷の現地に赴いた空海は早速、人夫・馬・馬車・資材を大量にしかもすみやかに集め、たった2ヶ月の工事で日本最初のアーチ式ダムを完成させたという。そ れまで、朝廷から派遣された築池使の路真人浜継が3年かかって完成を見なかったことを考えれば、異常な早さである。この工事に、讃岐の秦氏の技術者たちを 空海が動員したであろうことは容易に想像がつく。おそらく、讃岐平野に展開する溜め池群も秦氏の知恵と技術の所産であろう。
次に、空海がその完成にあたって碑銘を書いた大和益田池である。ここも満濃池と同様に一気に人夫・馬・馬車・船・資材が大量に集められ、大規模な潅漑用水 池が完成した。満濃池や和泉国の狭山池と同じ「樋管」(桧の巨木をくりぬいた木製の配水管)が使われていた。これこそ、秦氏の土木技術を物語る証左で、秦 氏が展開した地の溜め池や河川の水利にしばしば「樋管」が発見されている。
この大和益田池がある大和国高市の地は、先にもふれた が、古代における渡来人の集団居住地域であった。東漢氏(やまとのあや)の一番多い地域だが、秦氏を出自とする大安寺の勤操がここの出身である。秦氏も多 く住んでいた。にわかに動員され、難工事に当った技術者は先進的な土木技術の持ち主で、それは秦氏系の人たち以外には考えられない。
もう一件、摂津国の大輪田泊(おおわだのとまり)の港湾修築である。
天長5年(828)、嵯峨と同様に空海と親交をもっていた淳和天皇は、空海を摂津国の大輪田泊の造船瀬所別当に任じ港湾修築の指導監督にあたらせる。朝廷 は讃岐の満濃池や大和益田池の治水工事を短期間でやり遂げた空海の高い手腕を買い、着手以来15年を経ても埒があかないこの国営の港湾修築を空海に託し た。
この大輪田泊を最初に築いたのは、百済系渡来人西文(かわちのふみ)氏を出自とする仏教僧行基であった。行基は入唐留学僧道 昭に法相を学ぶとともに、道昭が晩年に行った遊行と社会救済の土木事業に範をとった。全国各地を遊行し民衆のために潅漑用水や港湾開発を行ったディベロッ パーであったが、そのバックにはいつも渡来系の技術者集団があった。空海にはどうもこの行基の「方法」に範をとっていたふしがある。
大輪田泊が所在する摂津や西隣の播磨には、古くから秦氏が入植していた。播磨の平野部では水田開発を行い、赤穂などの沿岸では塩田や港湾の開発や海運を 行った。空海の実家の讃岐の佐伯直氏は播磨の佐伯直氏の分家といわれる。空海は、大輪田泊の場合もそうした人脈を活用して別当の職を全うしたはずである。
神戸、「大輪田」の名が残る橋 大和、益田池 讃岐、満濃池
以上、秦氏と空海のかかわりの概略だが、ついでに秦氏とも混血している藤原氏と空海の親和関係を述べておきたい。空海の破天荒な人生の行く先々で、秦氏と藤原氏とのかかわりが運を開いた。
◇藤原氏のルーツ
朝廷氏族の雄である藤原氏は複雑な系譜をもつ氏族である。
そのルーツは、大化の改新の功によって中臣鎌足が天智天皇(中大兄皇子)から四姓(源氏・平氏・藤原氏・橘氏)のうちの名門藤原姓を与えられて藤原鎌足と名乗り、その姓を次男不比等が継承したことにはじまる。
鎌足の氏族だった中臣氏は、古くから宮中の神事や祭祀にかかわってきた朝廷氏族で、神話の神天児屋命(天児屋根命、あめのこやねのみこと)を祖とする。この神はそのまま藤原氏の氏神となり、春日大社などに祀られている。ちなみに、鎌足のことを百済王子の豊璋(ほうしょう)と同一視する説があり、藤原氏は百済系の渡来氏族だというのだが、根拠がはっきりしない。
藤原の嫡流となった不比等ははじめ、「壬申の乱」後の天武朝期に、天智に近かったとして中臣(藤原)氏が朝廷の中枢からはずされたため、しばらくは不遇の 身であったが、文武天皇を擁立した功により天皇の後見として朝廷の中枢に返り咲いた。以後、第三夫人との間にもうけた長女宮子を文武天皇の皇后に送り、文 武の乳母として後宮で名を成した県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ、橘三千代)を後妻に迎え、授かった三女光明子を聖武天皇の皇后(光明皇后)にす るなど、着々と朝廷氏族の雄への道を歩んだ。
不比等はまた、一族の権勢を誇るかのように壮麗な興福寺を建立している。もともと興 福寺は、天智天皇の妃だった鏡王女(かがみのおおきみ)が藤原鎌足の正妻となった後、鎌足の病気平癒を祈って鎌足発願の釈迦三尊像を、山背(山城)の山階 (山科)の私邸に祀って建てた山階寺(やましなでら)がはじまりで、その後飛鳥の廐坂(うまやさか)に移されて廐坂寺といわれていたものを、遷都とともに 平城京の左京三条七坊に移し、中金堂ほかの堂塔伽藍を建立して興福寺と改名したものである。以来、興福寺は藤原氏の氏寺(私寺)ながら国家仏教の中枢を担 うとともに、西の京の薬師寺と並んで南都法相の法城として君臨した。
不比等には四人の男子がい た。正妻蘇我娼子との間に生れた長男武智麻呂(むちまろ)、次男房前(ふささき)・三男宇合(うまかい、馬養)と、第二夫人の大原大刀自(おおはらのおお とじ、五百重娘)との間にできた麻呂(まろ)である。この四人兄弟はいくたびかの権力争いを乗り越え、太政官の要職について朝廷の実権を握り、藤原四子政 権などといわれた。こののち、武智麻呂の一門は南家、房前の一門は北家、宇合一門は式家、麻呂一門は京家といわれた。
しかし栄華 は長く続かず、四人の兄弟は折から流行の天然痘にかかって世を去り、四家ともに後継の子弟が未成人だったこともあって、しばらく衰微の時期があった。しか し、やがて聖武天皇と光明皇后の娘である女帝孝謙天皇の時代になると、南家の次男の仲麻呂(恵美押勝)が参議・大納言さらに天皇側近の中務卿や中衛大将に 栄進し、政治と軍事両面の実権をにぎるなど、再び藤原氏の勢力が息を吹き返す。
◇藤原氏と空海の親和関係
仲麻呂の南家は、その後代々、朝廷の中枢の地位にあったが、北家に押され気味となり、歴史に名を残す人はとくに出なかった。空海との縁で見ると、仲麻呂の 十一男で南都法相の碩学だった徳一と、桓武天皇の第二夫人で伊予親王の母であった吉子(仲麻呂の弟の乙麻呂の子是公(これきみ)の娘)が目立つ。
徳一は、壮年の頃平城京を離れて会津磐梯山麓に篭り、山岳信仰によって東国・東北の民衆教化に努めた人であるが、比叡山の最澄(天台宗)にはきびしく「三 一権実諍論」をしかけ、最澄が亡くなるまでの五年間宗論を闘わせたが、空海には終始好意的で、空海が創案した密教への疑問を『真言宗未決文』にまとめて書 き送ったが、通説が言うように、空海密教を批判したものではなかった。事実徳一は、空海から依頼された密典の書写を拒まなかった。
また、吉子が桓武との間にもうけた伊予親王だが、空海の叔父の阿刀大足がその侍講(位の高い人の専任講師)をつとめた。吉子は「伊予親王の変」によって親 王とともに飛鳥の川原寺に幽閉され、そこで自害したのだが、のちに二人の怨霊は「御霊」として祀られ、神泉苑や空海亡き後の東寺と西寺において御霊会が修 された。
北家と空海の縁は、まず空海に興福寺南円堂の設計監督を頼んだ藤原内麻呂(うちまろ)がはじまりである。内麻呂の妻百済永継(くだらのながつぐ)は河内国の百済系渡来氏族を出自とする飛鳥部奈止麻呂(あすかべのなとまろ)という。
興福寺南円堂
その次男冬嗣(ふゆつぐ)には百済系の血が流れている。南円堂は 内麻呂の死後、弘仁4年(813)に完成し、冬嗣が父内麻呂の追善供養のために建立したかっこうになった。堂内には、内麻呂が用意した本尊不空羂策観音像 のほか、四天王や真言八祖が祀られた。南円堂完成のあと、北家の権勢は益々さかんになり、内麻呂・冬嗣ゆかりの南円堂は興福寺のなかでも特殊な位置を占め るようになった。 冬嗣は、空海と同じように、嵯峨天皇の信頼が厚く、嵯峨が創設したブレーンスタッフ「蔵人所」(くろうどどこ ろ)の事実上のトップである蔵人頭となり、坂上田村麻呂(渡来系東漢氏の出自)とともに「薬子の乱」を鎮圧した。空海とは、この時期、 最も親しかったと思われる。冬嗣は当然、父の内麻呂から空海の情報を縷々聞いていたであろう。渡来系の秦氏との親和関係も聞いていたはずである。百済系渡 来人の血を引く冬嗣には、自ら進んで交わるに足る人物だと思ったにちがいない。