藤原広嗣が祀られているその他の神社史跡、資料 |
○南都鏡神社~藤原広嗣を祀る社http://ameblo.jp/rrerr/entry-10560866019.html
○くさまくらhttp://www.nunato.com/nara1-15.htm
○大村神社、鏡神社○歴史と自然への訪問記
http://blog.goo.ne.jp/aiz777/e/cb91c2f8ec715acd316d51eceed51d5b
○下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/shimo-goryo-jinjya.htm
いま、蘇る弊立神宮 http://heitate.blog37.fc2.com/blog-entry-122.html より怨霊信仰とは…
なぜ、怨霊になるかというと、出雲大社の多く大国主命と同じように、無実の罪だったからです。
ここには日本に伝統的な怨霊信仰があります。
怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊である。怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった。これが御霊信仰です。
赤塚氷川神社 あかつかひかわじんじゃ http://www.myluxurynight.com/kanto/akatsuka/akatsuka-04.htmlより
赤塚氷川神社は千葉自胤が赤塚城の鬼門除けとして長禄元年(1457)に武蔵国(現・埼玉 県)一之宮である氷川神社より素戔嗚尊を勧請して創建したことに始まるとされている。八幡神社と赤塚神社の合祀社、榛名神社、白山神社、阿夫利神社と続き、最後にある石祠には疱瘡神が祀られる。 多くは代表的な山の神さま達を祀る摂社ですが、気掛かりなのは八幡神と合祀されている赤塚神社の祭神。
この氷川神社に限らず、寺社の境内や村境などで疱瘡神を祀る石祠を見掛けることがあります が、そう云った場所は結界の地として異界への出入口と見做されてもいたの。その出入口から悪霊や悪鬼がひたひたと村へ来たりて災いをなすと信じられたこと から祠を建てて祀った。この村ではあなたさまをこうして崇め祀っておりますのでどうか悪さをなさらずにそのまま旅をお続け下さい-と云ったところね。
御紹介した摂社の他にも社殿背後には見馴れない神霊の名を刻む石碑や祠が建てられ、本殿に 祀られる素戔嗚尊を離れてこの氷川神社には嘗て赤塚村の人々が寄せた様々な願いが形として残されているの。
境内を後に参道へと向かいましたが、鳥居に掲げられた扁額には氷川神社の名と共に御霊神社 の名が並記されているの。御霊神社と聞くと景政神を祀る鎌倉権五郎神社を連想しますが、同じ御霊神社でもここでは藤原広継を祀るの。じゃあ、藤原広継なる 人物はいったい何者なの?となるのですが、傍らの案内板には次のように記されていた。-藤原広継命は奈良時代に政権争いから九州へ追いやられ、太宰府で 反乱を起こしたが朝廷軍に捕らえられて処刑された薄幸の貴族である。朝廷ではその怨霊の祟りを恐れて神として祀ったが如何なる理由で当社に祀られたかは不 明である。板橋区教育委員会-
これを読んだ瞬間に、エ~ッ!?何か菅原道真と同じようなチシュエーションじゃないの!と 云うよりも菅原道真よりも昔のお話しで、怨霊として恐れられたとなると道真の先輩格にあたるわよね。
御紹介しましたように、創建時には武蔵国一之宮氷川神社から素戔嗚尊を勧請していますの で、その時点で藤原広継も合祀されたとは考えにくいですよね。となると後世に新たに勧請されたことになるのですが、どこから招来されたのかが問題よね。一 番の可能性が現在は京都府に鎮座する上下両御霊神社で、八所御霊と称して下御霊神社では崇道天皇・伊豫親王・藤原吉子・橘逸勢・文屋宮田麿・吉備聖霊・藤 大夫・火雷天神の八柱を祀り、冤罪を以て誅せられたことから怨霊化して祟神となった彼らの魂を鎮めるお社なの。因みに、上御霊神社では伊豫親王・藤原吉子 に代えて井上大皇后、他戸親王を祀りますが、両社に祀られる藤大夫と云うのが藤原広継のことなの。残る七柱についても全て調べ記すとなると…荷が勝ちすぎますので、ここでは藤原広継に限定して御紹介してみますね。
(以下省略)引用終わり
○北九州にも史跡があります。
http://www16.ocn.ne.jp/~sironoki/100fukuoka-no-shiro/123matsuyama-buzen/matsuyama-buzen0.htm
苅田にある松山城など