ペトログラフ、参考資料 |
シュメール系シナイ文字などで読めるペトログラフは、以前は北海道から沖縄までの三十八ヶ所で四十個が見つかっていたが、昭和五十七年以降、私たちの探索調査により西日本の十一ヶ所(山口県角島、同豊浦町川棚、下関市彦島、山口市鋳銭司、山口県吉敷郡秋穂、福岡県北九州市門司区、同小倉北区、福岡県粕屋郡外宇美町、福岡県豊前市、佐賀県江北町、大分県安心院町)で八十八個が追加発見されていた。その八十八個のうち八十七個の岩に彫られたペトログラフがなぜか、皆シュメールのクサビ型文字やシナイ文字コードで解読できそれらの殆どに、シュメールの神々の名前や祈願の言葉が彫られている。「おそらく四千-五千年前の西日本にはシュメール系民族が到来していたのに違いない。それでないとシュメール文字でペトログラフが読める説明が出来ない。」と言う結論に至っていた。ところで松柏園ホテルで見つかったような七枝樹のペトログラフは西日本では大分県安心院町熊の通称・甑岩や、下関市彦島杉田丘陵頂上の巨石から検出されている。また全国的には、北海道岩内町の円山線刻岩はじめ常陸太田市春日神社線刻石、神奈川県伊勢原市の比々多神社、出雲木次神社線刻石など、多くのペトログラフに彫られていることが、歴史言語学者の川崎真治氏(東京都杉並区高円寺在住、「日本最古の文字と女神画像」などの著者)の調査で報告されている。七枝樹は蛇女神(大地母神)信仰に密着していて、その文様はイラクのワルカから出土した紀元前三千年紀の回転円筒印章(大英博物館蔵)に彫られた「七枝樹」の左に位置する大地母神「キ」の背後にあって、シュメールのウルク王朝の女神「キ」の表象である。それの変形であるヒは、シュメールの以前の中国の甲骨文字であるため、「なぜ古代バビロニヤの文字と甲骨文字が同一ペトログラフ岩に共存するのか?」という問題を提示する。(以下、省略)
コンユメールから東遷した七枝樹(生命の樹)
ところで七枝樹マークは、世界最古のものとしてはメソポタミアにあったシュメールのウルクやウルなどの王朝では都市の守護神とされた「豊穣の神」の徴であり「生命の木」として崇敬された。(八頁の写真は回転印章の七枝樹)七枝樹は紀元前五千年のシュメール語では「イシブ・イシェバ一ザサル・アメール」と呼ばれた。その意味は「霊験あらたかな三と四の枝の木」である。その「七枝樹」文様は国内では松柏園ホテルの他に、大分県宇佐郡安心院町の京石遺跡、福岡県粕屋郡宇美町の宇美八幡にある「韓石」、下関市彦島の杉田丘陵の「不思議な絵文字岩」や広島県宮島の彌山頂上、岐阜県恵那市の笠置山頂上にある「見晴らし岩」、熊本県入吉市高塚山などで見つかっており、「シュメール由来の豊穣神信仰のしるし」とされている。(写真は紀元前五千年の回転印章にある七枝樹)因みに東北大学教授であった土居光知氏は「生命の木の東遷」説を唱え、古代中国では海神の宮殿に描かれているのが確認されたほか、股塘出土の彩陶にもその文様が見知される。なお、日本の神道で拝殿正面に置かれる神器にも七枝樹の流れと見られるものがある。日本で見られるその思想の具現例としては古事記の天若日子と下照姫の家の門にある湯津楓(ユツカツラ)や、豊玉姫の海神の門にある湯津香木(ユツカツラ)、田道守伝説の非時香菓(ときじくのかくのこのみ)とはペルシャから持ち帰った「生命の木」の若木ではないかとまで言及している。歴史言語学者の川崎真治氏は、「日本最古の文字と女神画像」(六十三年五月二十五日六興出版刊)で、「沖の島出土の宗像神社滑石製人形にも蛇文様とヒがある。」と報告する。
宗像神社は、三女神を祭る神社であり、古代海洋部族の阿曇連(アズミノムラジ)に関わる祭祇の場である。また、大分県安心院(アジム)の語源は、「阿曇」(アズミ)の転詑である。その安心院の熊で発見された甑岩ペトログラフなどに同様の文様がある。安心院は「宇佐嶋に三女神が降臨し、都を作ろうとされた」という豊後風土記の記述から推定すると、「三人の女首長に率いられた海洋民部族が到来して、そこに安曇海洋国の根拠地を築こうとした」ものと理解できる九州古代海洋部族の王国の拠点である。それは古事記の宗像三女神降臨伝説の場所である上、古代宇佐宗教圏の中心地である。その安心院で発見された十二個のペトログラフ岩がすべてシュメール系シナイ文字で解読できることは、彦島同様に、シュメール系海洋民族の勢力圏が、響灘、周防灘一帯を覆っていたことを示唆すると思う。小倉松柏園ホテルのペトログラフ岩は宇佐川中流から運び出されたものだ。当然その一帯も、古代外来海洋民族の根拠地だったから、同じ勢力圏にいた人人の宗教遣跡であったに違いない。
「近々、宇佐川中流の若宮神社古跡を探索調査して、今回松柏園ホテルで見つかったのと同じペトログラフを更にそこで検出し、ペトログラフの謎解明を進めたい。」と一同の意見は一致した。その調査は翌昭和六十三年に実現した。そのきっかけは北九州市門司区の淡島神社で松柏園ホテルのものと同じ七枝樹ペトログラフが見つかったことによる。昭和六十三年九月六日のこと、日本ペトログラフ協会設立以前からの研究仲間である木村敏定さん(元小倉高校教諭、門司区大里在住)が、「いつもスケッチに行く門司区奥田の淡島神社の石にペトログラフのようなものがある。」と、私の確認を促した。木村敏定氏は昭和五十七年に西日本新聞社下関支局の依頼で彦島杉田の絵文字岩を調査したときの探索者でもあるし、昭和六十一年度福岡県教育科学研究・「下関市彦島の古代岩刻文字岩の言語学的調査」や昭和六十二年度文部省科学研究「古代岩刻文字の総合調査」などの共同研究者である。淡島神社境内の石垣を調べると、確かに百四十センチ角の岩など四個に、七枝樹やY、Ψなどがくっきりと刻まれているのが確認された。盃状穴岩も一個見つかった。これらは梅光女学院大教授の国分直一博士(考古学者、盃状穴研究者として知られる)が、「素晴らしい資料で、韓国にあるペトログラフとの関連で捉えるべき。」と激賞したほどのもので、その一ケ月後にNHK北九州テレビニュースや、ニケ月後のNHKテレビ全国ニュースの「謎の古代文字を追え!」、RKB毎日ラジオなどで報道され、大分県や熊本県、山口県などのペトログラフ発見をもたらすこととなった。これらの淡島神社の岩は、昭和五十九年に同神社が北九州高速道路の建設のために以前にあった場所から現在地に移築された際、神社総代で造園業者である水野文化園社長の水野貞夫さんが、大分県の宇佐川上流から運んで来たものと判明した。この証言は松柏園ホテルの佐久間社長からお聞きした、「父の代に宇佐川の上流から運んだ石」と符合する。「それなら宇佐川(駅館川)の上流を探せば必ずほかのペトログラフ岩がたくさん見つかるはずだ」と考えた私はすぐさま水野社長に教わった宇佐川上流の地点へと調査に向い、九月十八日午後、大分県安心院町
下毛の国民休暇村・大交ホテル(平成十二年から亀の井ホテルとなった)前の環状列石(地元では京石という)に刻まれたシュメールくさび型文字とシュメール古拙文字の混じったペトログラフ岩を見つけたのに続き、それらを移設した安心院町教育委員会からの紹介で「宇佐山郷郷土史会」の丹生忍冬斎・会長や安倍武男氏などの助力で、安心院町佐田の環状列石(佐田京石)群にペトログラフが刻まれているのを確認した。この思いがけない発見に安心院町の考古学関係者はわきたち、郷土史会や縄文会など考古学関係者の数次に及ぶ探索調査で、安心院町の米神山一帯に多くのペトログラフ岩が見つかった。NHK北九州放送局は、つぎつぎに見つかる西日本のペトログラフに焦点を合わせた全国放送テレビニュース番組を企画したため、その予備取材に十一月二十日に安心院町を再訪したところ、安心院大交ホテルの副支配人と女子従業員は、新たに一個を発見した。それでまた地元のペトログラフ熱は盛り上がったじ昭和六十三年十一月十九日と二十日の地元郷土史会と私たちの合同探索調査にはNHK北九州放送局の久保田デレクターや佐藤直樹アナウンサーが中心となり、NHK大分放送局が協力する形で合同のテレビニュース制作チームが組織され調査の一部始終をカメラに収めた。
NHKの番組制作取材中に安心院町米神山一帯でペトログラフをつぎつぎに発見!
昭和六十三年十二月四日朝九時から、大分県安心院町に本部を置く「宇佐山郷郷土史会」(丹生忍冬斎・会長ほか五十名)は、NHK北九州放送局の「謎の古代文字を追え!」取材班と共に同町北東部にある米神山一帯のペトログラフ探索調査に乗り出した。もちろん私や木村敏定・西日本民俗芸術調査会理事、それに下関ペトログラフ保存会の稲富十四郎・事務局長もその調査に加わった。地元郷土史会に加えて、西日本民俗芸術調査会、ペトログラフ保存会、NHK、日本ペトログラフ協会の合同探査会となったのである。「宇佐山郷郷土史会」は、この日合計六個のペトログラフ岩を見つけて、それまで見つかっていたものと合わせて、安心院町には合計十二個のペトログラフ岩の存在が確認されたのである。「安心院町佐田には昔から「京石」という不思議な岩石群がある。それは直径六十センチ、高さニメートルほどの先端が丸く尖った石柱が林立する遣跡で、かっては九百九十九本の石柱が米神山山麓にあったので、村人はそこを通るのも怖かったと言う。
伝説によると、「大昔、神様がそこに都を作ろうとして、天から千本の石柱を降らせようとした。あと一本で千本という時に、村の女が通りかかったので神様は都を作るのをやめた。だからその不思議な岩石群を京石という」とされている。ところがその京石群は昭和四十年から五十年代にかけての土地開発や道路開発に邪魔になるということで破壊され、希望する石材業者や庭師などに払い下げられて僅かに二十数本が残るだけとなっていた。その近くには日の谷、月の谷という神秘的な峡谷があり、京石と同じ形の石から山仕事中の安倍武男さんが下関市彦島のものと同じような線刻を見つけていた。そのため、同様のものがあると見て調査隊はその京石群に向かったのだった。午前十時、佐田京石遣跡のうちニューヨーク大学のライル・ボルスト教授が「アーミングホール型環状列石」と判定したメンヒル群を調べていた一行の中の江口隼一・宇佐高校校長は、八個あるうちの一個の立石表面にペトログラフを検出した。このあと米神山に登った宇沙山郷郷土史会員の一行は、NHKのテレピカメラの前で、丹生忍冬斎会長自ら頂上の巨石に長いY字状の文様を見つけた。このyは「大地母神」である。この間、安部武男、生野久夫さんらが、佐田町熊の田圃の中にある通称「甑岩」から蛇の文様とカタカナのヒなどを見つけた。直径約五十センチほど、長さ約一・五メートルほどの円柱状の同岩頭部には、直径五十センチ、厚み十センチほどの円盤状の石が置いてあり、地元では、「それを取ると嵐になる」として、「暴風岩」と名付けている。早越の時にその円盤石を取り除くと暴風となり、大雨となって救われるというのである。江藤久夫さんの了解を得てその裏面を覗いてみると、中心の浅い穴のまわりに五個の穴が円上に配置されていた。五個の穴は「大地の男神」を意味している"